バイオダイレクトメール vol.45 細胞夜話
<第9回:母国語で書いてしまったばかりに - Helicobacter pylori>
1982年、オーストラリアのRoyal Perth Hospitalのロビン・ウォレンとバリー・マーシャルがヒトの胃かららせん状の菌を単離・培養することに成功しました。当時の定説では、胃には細菌は生息することができず、胃炎や胃潰瘍はストレスの結果であるとされていました。しかし、彼らはこの菌が病原体であるという新しい仮説を提唱しました。研究が進んでこの仮説が正しかったことが証明され、2005年に彼らはノーベル賞を受賞しました。
しかし、胃に存在する菌に気づき、病気との関連を指摘したのは、実は彼らが最初ではなかったのです。
母国語で書いてしまったばかりに - 忘れられた研究と誤った定説
今から130年以上前の1875年に、世界で最初にヒトの胃の上皮かららせん状の細菌をドイツの研究者が発見しています。しかし、その菌を培養できなかったうえに、胃は強酸性で細菌の生存には適さず、腸の細菌感染に対する防御機構として機能しているとして、細菌学黎明期になされた、このドイツの研究者による発見は忘れ去られてゆきました。
続いて1886年に、ポーランドのジャウォルスキーが胃の沈殿物かららせん状の細菌を発見しました。彼はその菌をVibrio rugulaと名付けました。彼は胃の細菌についての研究を進め、胃から見つかるらせん状の細菌Vibrio rugulaは胃疾患の病原菌ではないかとする仮説を提唱し、1899年に出版された「胃疾患のハンドブック」に収められました。本来であれば、これがHelicobacter pyloriの最初の研究例となったはずですが、ポーランド語で書かれていたために、他国の研究者に対するインパクトはほとんどありませんでした。また、当時の培養技術ではHelicobacter pyloriの培養は不可能であったこともあり、彼の業績も時の流れの中に消えてゆきました。
その後も、主にヨーロッパで胃から発見される細菌についての知見が蓄積されてゆきますが、強酸性の胃の中に細菌が生息しているはずがないという定説は根強いものがありました。1954年にパルマーが、多数の胃生検試料を調べた上で、胃には細菌はいないと結論づけたのに代表されるように、アメリカの研究者たちは、胃に生息する細菌について否定的でした。
培養の成功と研究の進展
ウォレンとマーシャルの成功の基礎となる培養技術が確立されたのは、さらに時を下った1977年になってからでした。この年、Campylobacterの微好気培養技術が確立され、特別な培地と培養法によって、微好気性かつ栄養要求性の厳しいCampylobacterの培養が可能になりました。ウォレンとマーシャルはこの技術を応用することで、それまで誰も成功していなかった、胃のらせん状の細菌を培養することに成功します。
彼らが単離した細菌は、形態の類似性や、微好気培養が必要なことから、Campylobacterに分類され、幽門(pylorus)付近から得られたので、Campylobacter pyloridis(幽門の湾曲した細菌、という意味。後にpyloriに変更)と命名されました。後に、電子顕微鏡や遺伝子解析の結果から、実際には、Campylobacterとかなり異なっていることがわかり、新しい属であるHelicobacter(らせん状の細菌)に変更され、現在のHelicobacter pyloridisという名前になりました。
胃炎や胃潰瘍の慢性化と胃がんの発生に相関があることはHelicobacter pyloriの発見当時から知られており、この菌が胃炎や胃潰瘍の原因であるとするウォレンとマーシャルの仮説は注目されました。その後、胃がん患者では抗H. pylori抗体の陽性率が高いことを示した疫学研究や、スナネズミに感染させると胃がんが誘導されるとの報告、除菌によって慢性疾患の再発を防止できることなどから、H. pyloriが慢性の胃疾患やそれに続く胃がんの発症に関与するとの考えは広く受け入れられるようになりました。
医学的重要性から、H. pyloriの研究は熱心に勧められ、1997年にはゲノムの解読も完了しています。
一律に除去してしまえ、とは言いがたい・・・
研究の進展により、H. pyloriについてのさまざまな知見が蓄積されてきました。
H. pyloriは系統間の差異が大変大きく、遺伝子の20 %近くが系統特異的な遺伝子であるとの報告もあります。系統特異的な遺伝子は病原性に関与する遺伝子に多く見られ、感染しているH. pyloriの系統によって消化器への傷害の程度は大きく異なります。また、宿主となっているヒトの側の個人差によってもH. pyloriによる影響の程度は異なります。
逆に、胃や十二指腸にダメージを与える一方で、胃酸の逆流による食道の疾患を抑制していることを示す報告もあり、先進国でH. pyloriの感染者の割合が減少していることと、食道疾患が増加していることに相関があると考える研究者もいます。さらに、胃と脂肪細胞で生産されるレプチン(摂食を抑制するホルモン)のうち、前者に関しては、H. pyloriの感染者では感染していない場合に比べて生産量が多く、摂食を促進するホルモンであるグレリンはH. pyloriを除菌すると濃度が上がるとの報告があります。摂食に関連するこれらのホルモンとH. pyloriの相関は、まだ完全に解明されてはいませんが、これが事実だとすると、先進国で増加している肥満症との関連も考える必要があるかもしれません。
H. pyloriは一種の常在細菌であり、人類の胃はその存在を前提に進化してきたとする考えもあります。この見地に立つと、H. pyloriは胃酸を調節し、問題を防ぐ存在と考えることができます。医学の発展により、この数世紀の間に人類の寿命は急激に伸びましたが、それ以前の寿命がそれほど長くない時代には、長期間の慢性胃疾患による胃がんの発症リスクよりも、胃酸の調節による利点のほうが大きかったのかもしれません。
上記のような知見を考慮すると、H. pyloriを全てのヒトから一律に除去してしまうのは賢明とは言えないかもしれません。胃疾患の発症や食道疾患の抑制など様々な側面からのH. pyloriとヒトの相互作用についての研究や、H. pylori感受性の違いをつくり出す個人差についてのファーマコゲノミクス研究の進展が望まれます。
2011.12.28追記
H. pylori感染者はShigella sonneiによる細菌性赤痢などの下痢疾患にかかりにくいことが示されました。平均寿命が短く、衛生状態もよくなかった時代においては、H. pyloriによる発がんリスクより、下痢疾患予防メリットのほうが大きかったかもしれません。
参考文献
- Blaser, M. J., Scientific American 292 (2): 38-45(2005)
- Konturek, J. W., Journal of Physiology and Pharmacology 54 Suppl 3: 23-41(2003)
- Blaser, M. J. and Atherton, J. C., The Journal of Clinical Investigation vol. 113 no. 3, 321-333 (2004)
- Salama, N. et al, Proc. Natl. Acad. Sci. USA vol. 97 no. 26, 14668-14673 (2000)
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