バイオダイレクトメール vol.65 細胞夜話
<第27回:塩水と水道と長崎ちゃんぽん - 食塩水を用いたごく初期の培養>
培養液と言うには相当に無理がありますが「生物の個体から単離された組織や細胞を生かしておくための溶液」として最も古くからあるものは「リンゲル液」で、その改良が施されて現在でも医療の現場で使われています。リンゲルとドイツ式に表記されていますが、これは明治期にドイツ医学が導入された影響で、実際の発明者はシドニー・リンガーというイギリス人です。
筆者注:この記事は組織培養から細胞培養へと続く培養技術発展のごく初期の流れとそれに関わる興味深い逸話をまとめようという無謀な2回シリーズの第1回です。
1835年、イギリス、ノーフォークの田園風景に囲まれたノリッチで、シドニー・リンガーは貿易商の三男として生まれました。貿易商一家に生まれたシドニー・リンガーですが、彼は兄たちの例に倣わず医学の道へと進みました。
リンガーは医師としての治療を行いながら、並行して生理学、特に心臓についての研究を進めていました。そして1982年、「血液の成分が心室の収縮に及ぼす影響に関して」と題した図を含めれば17ページにも及ぶ論文で食塩水にどのような成分を加えると摘出した心臓が動き続けるようになるのかを検証し、塩化カリウムが非常に重要であると論じています。
その論文を出した後のある日、リンガーはいつものように実験を行おうとしますが、この日はラボのアシスタントであるフィールダーが休暇中でした。そこで、リンガーは蒸留水を使って生理食塩水を調製しました。ところが、かん流に使う溶液を血液を混ぜたものから、この食塩水に変えると、カエルの心臓は数分で動かなくなってしまったのです。この一件により、フィールダーが食塩水を調製するのに使っていた水が蒸留水ではなく、実はごく普通の水道水であったことが発覚しました。
フィールダーのその後については、現時点では調べがついていません。リンガーは時間厳守を旨とする大変自分に厳しい人物でしたが、部下に対しても厳しい上司だったようで、雑誌に掲載された1910年のリンガーの死亡告知記事には、ラボのアシスタントが彼らの上司の要求についてゆくのにかなり苦労していたと記されているそうです。そのことからすると、水道水を使っていたことが発覚した直後は、フィールダーは相当に胃の痛い思いをしたのではないでしょうか。
水道水を使っていたフィールダーに対してどのような態度をとったかはともかく、「水道水を使った食塩水では心臓が動き続ける」という事実に対しては、リンガーは実に真摯な態度で詳細な研究を行いました。水道水に含まれている不純物の種類とその量を調べ上げ、そのそれぞれが心臓に対してどのような影響を与えるのか試したのでした。そうして、1983年の論文で、蒸留水で調製した食塩水では心臓の動きを維持できないこと、1982年の論文で使った食塩水が実は水道水で調製したものであることを正直に記し、溶液中のカルシウムの重要性を明らかにしたのでした。
この後、リンガー自身や他の研究者による改良を受けながらリンガーの溶液は進化を続け、医療の現場では点滴等の輸液として用いられ、一方研究の現場では摘出した組織や器官を用いた実験を大きく前進させる助けとなりました。
長文作家の生理学
大変有名な教科書「Molecular Biology of the Cell」には、「Some Landmarks in the Development of Tissue and Cell Culture」と題した年表が掲載されており(筆者の手元にある英語版の第三版では161ページ)、その最初の行には1885年にルーが体外の食塩水中でニワトリの胚細胞を生かしておけることを示した、と記されています。
ヴィルヘルム・ルーは、19世紀に発生学を生物学の分野として確立した研究者です。その当時の発生学の研究というと、エルンスト・ヘッケルが提唱した反復説(個体発生は系統発生を繰り返す)に代表される比較発生学的研究が主流でした。ルーはそのヘッケルの弟子ではあるのですが、発生学が系統を研究するための道具として使われているのが気に入らなかったらしく、胚に手を加えてその経過を見る実験を行い、発生の機構自体を主題とした研究を行いました(そのためルー自身は彼の研究分野を「発生機構学」と呼んでいます)。ルーの一連の研究によって発生学は系統研究の一分野から、実験によって発生機構を研究する学問として独立し、現在の発生生物学へと進歩してゆくことになります。
食塩水中でニワトリの胚細胞を培養した件については、残念ながら筆者はドイツ語を解しませんし、ルーの実験の詳細を記した英語の文献も発見できませんでしたが、ワシントン大学で生物学史を研究していたハンバーガーによるルーについての解説がその実験の一端を明かしてくれます。ルーは、様々な強さの電気的な刺激が発生にどのような影響を与えるのかを調べるために、カエル、サンショウウオ、トカゲ、ニワトリの胚を使ったそうです。ルーのそれ以前の多くの実験では卵をゼリー状の膜に浮かべて実験していたようですが、電気を流すには食塩水の方が都合が良さそうです。
学問としての発生学の確立に多大な功績のあったルーですが、なかなか難しいところもあった人物のようです。
ルーは、受精卵に分化に必要な全ての因子が含まれており、それが細胞分裂で不均衡に分配されることで細胞の分化が進むという機械論的な立場を取っていました。そのルーの理論に従えば、必要な因子が不均衡に分配されるため二細胞期以降の割球の一部を破壊した場合、破壊された部分が欠落した不完全な胚となるはずです。ルー自身がカエルの卵を使って行った実験の結果はその理論と合致していたのですが、若いハンス・ドリーシュがルーの実験に触発されてウニの卵を使って実験してみると、ルーの実験結果とは反対に完全な胚が得られました。この結果からドリーシュはルーとは違う独自の理論を構築し、二人の論争が始まりました。
ルーはカエルを用いた結果が「典型的」なものであり、ウニなどの無脊椎動物での結果は「典型的ではない」として他の発生学の研究者に無脊椎動物を実験材料として使わないようにアドバイスしてみたり、その当時最も権威ある発生学の雑誌を発行している立場を利用してドリーシュの論文に「ルーの論文、***を参照」といった脚注を勝手に書き足してドリーシュを激怒させてみたりと、相当に自説に固執するところがあったようです。
当時の生物学の研究者は論文に美しい図解を付けるのを常としていました(論文のためにプロのイラスト画家や写真家を雇うこともあったようです)。ところが、ルーは図解によって読者の理解を助けるという考えがなかったのか、彼の著作は凝った文体の長い文章で占められていました。極端な場合には、1600ページにもなる著作集に図がたった7点ということもあったほどです。自身の手による不完全胚の絵は大変印象的で、彼に絵心がなかったわけではなさそうですが、論理的思考能力に優れたルーは読者にも相応の読解力を要求していたのかもしれません。
(次回、ハリソンによる本格的な培養実験に続きます)
参考文献
- Ringer S., Concerning the Influence exerted by each of the Constituents of the Blood on the Contraction of the Ventricle. Journal of Physiology, Vol. 3, 380-393 (1882)
- Ringer S., A further Contribution regarding the influence of the different Constituents of the Blood on the Contraction of the Heart. Journal of Physiology, Vol. 4, 29-42 (1883)
- Orchard C. H., Eisner D. A. and Allen D. G., Sydney Ringer viewed in a new light. Cardovascular Research, Vol. 28, 1765-1768 (1994)
- Miller D. J., Sydney Ringer; physiological saline, calcium and the contraction od the heart. Journal of Physiology, Vol. 555, No. 3, 585-587 (2004)
- Zimmer H., Sydney Ringer, Serendipity, and Hard Work. Clinical Cardiology, Vol. 28, 55-56 (2005)
- Hamburger V., Wilhelm Roux: Visionary with a Blind Spot. Journal of the History of Biology, Vol. 30, 229-238 (1997)
細胞夜話作者の余談
- 長崎ちゃんぽんのチェーンとして有名なリンガーハットのリンガーは、フレデリック・リンガーというイギリス人の名前にちなんだものだそうです。このフレデリック・リンガーはリンゲル液を開発したシドニーの兄です。貿易商として上海に渡ったリンガー家の長兄のその後はよく分かっていませんが、次兄のフレデリックは幕末の長崎で活躍しました。薩長を支援したことで有名なグラバー商会からののれん分けという形でホーム・リンガー商会を興したフレデリックは、様々な事業を展開して長崎の発展に貢献しました(商会は戦争によって一度は閉鎖されましたが、1952年に営業を再開したそうです)。
- リンガーはカエルの心臓を実験に使っていましたが、ラットなどの哺乳類の心臓を使っていたら、リンガーの記した実験法ではカルシウムパラドックス(カルシウムがない状態から急にカルシウムがある状態になると、カルシウムイオンによって細胞が傷害される)によって論文にあるような知見は得られなかったのではないか、とする歴史上のIFもあります。しかし、真摯で努力家だったらしいリンガーの気質を考えると、全部入った状態から1つずつ成分を減らしてゆくなどして、結局は同じ結論にたどり着いたのではないかと思います。
- 1983年にリンゲル液の開発100周年を祝おうと、ロンドン大学のオーチャードたちはかつてのリンガーのラボに近い大学北側棟の水道水を使ってリンガーの溶液を再現してみました。その結果、実験に使った心臓は見事に動き続け、水道水は100年前と変わらず十分に不純物を含んでいる、という何とも反応に困る結果が得られました。
- 研究者としては一癖も二癖もあったルーですが、個人としては付き合いやすい人物だったのかもしれません。研究の場では特に激しく対立していたドリーシュが、理論上の対立は個人的な関係に遺恨を残さなかったと述べています。ある日、哲学者でもあるドリーシュはハレ大学で開催されたカント学会に参加していました。午前中に講演を行ったドリーシュが、午後は夫人ともども全く学会の会場に姿を現しませんでした。その日の夜に他の参加者にどこに行っていたのか聞かれたドリーシュは「ルーのところにコーヒーを飲みに行っていた」と答えたそうです(ルーはその当時ハレ大学の解剖学教授でした)。