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生化夜話 第30回:蝶の羽ばたきで竜巻が起こり、中東の砲声にフィルム会社が頭を抱える1973年10月6日、シナイ半島ユダヤ教でもっとも重要な休日であるヨム・キプールで休みに入ったイスラエル国防軍の陣地に、スエズの対岸から砲弾の雨が降り注ぎました。前回、第三次中東戦争で占領された地域の奪還を狙うエジプト・シリア連合と、イスラエルの間で第四次中東戦争がこの瞬間にはじまりました。 「ブラジルでの蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を起こす」カオス理論で有名なエドワード・ローレンツは、遠く離れたできごとが、予測不能な大きな影響を生じるような系が存在しうることを表現した言葉です。日本から何千キロも離れた中東での戦争ですが、回り回ってバイオ研究を大きく変える技術革新につながることになります。 同年10月16日、エジプト・シリアを支援するためOPECは石油の値上げを決定、さらに20日以降イスラエル支援国への石油の禁輸を決定しました。その結果として原油価格が高騰し、いわゆる第一次石油危機が勃発しました。石油危機という言葉ではありますが、この時に値上がりしたのは石油に限りません。そういった値上がりしたものの中に銀がありました。 Silver liningならぬSilver rising今日ではカメラというとデジタル方式が主になっていますが、デジタルカメラが高性能化する前はフィルムカメラが標準でした。フィルムを用いたカメラを銀塩カメラと呼んでいたように、そのフィルムには銀が使用されていました。 このフィルムですが、20世紀のはじめはすべて輸入品でした。それがかなりの金額になっていることもあり、セルロイドの用途拡大を目指していた大日本セルロイド株式会社(今日のダイセル化学工業株式会社)が、写真用フィルムの国産化に挑戦しました。 大日本セルロイドが写真フィルムの支持体(フィルムベース)の開発に着手したのは1920年のことでした。ただ、その一方で海外から技術導入するのが国産化への近道であるとの考えもあり、世界最大の写真フィルムメーカーであったイーストマン・コダックに技術提携を申込みました。しかし、最終的にはコダックから拒否され、大日本セルロイドは独自開発の道を進むことになりました。 その後の開発の紆余曲折はたいへん興味深いものではありますが、そこに入り込むと生化夜話ではなく写真夜話になってしまいますし、筆者は写真の専門家でもないので、そこはプロにお願いしましょう。(参考:富士フイルムのあゆみ) 写真フィルムの開発に成功し、水がきれいで富士山もよく見える神奈川県の足柄に工場も完成しました。そして1934年、大日本セルロイドの写真フィルム事業を分離し、富士写真フイルム株式会社(今日の富士フイルム株式会社)が設立されました。 富士写真フイルム株式会社は国産写真フィルムメーカーとして大きく成長し、某漫画でも 筆者注:トライエックスはイーストマン・コダック、ネオパンSSは富士写真フイルムの製品です。 さて、そんな富士写真フイルム株式会社は、写真フィルムの新しい分野であるX線フィルムにも早くから取り組んでいて、会社設立の2年後、1936年にはX線フィルムの本格製造を開始しました。第二次世界大戦後、結核の早期発見のために実施された集団検診によりX線フィルムの使用は急増し、さらに非破壊検査で用いる工業用の製品も加わって、X線フィルムの需要は高まるばかりでした。 ここでようやく本題に戻りますが、そのX線フィルムにも一般の写真用フィルムと同様に銀が使われていました。それどころか、X線の像はその性質上、レンズで縮小・拡大するのが困難で、写したいものと同じ面積のフィルムが必要になりますので、1枚あたりの銀の使用量は一般の写真用フィルムどころの話ではなかったのです。 第一次石油危機の前、銀は1 kgあたり1万円台で取引されていましたが、価格が急騰、1974年3月には5万7000円台になりました。原材料費の高騰で、それまで大きな利益をあげていたX線フィルム事業は赤字に陥ってしまいましたが、だからといって健康診断などで幅広く使われているフィルムの国内トップメーカーとしての責任もあってやめるわけにもいかない、そんな中で数年前から保留になっていた研究プロジェクトに光があたったのでした。 ちなみに、銀価格はその後も上昇を続け、ピーク時にはX線フィルムを買ってきて、そこに使われている銀を取り出して売ると儲かるほどになったとか。 自社製品との競合も辞さず1971年、X線フィルムの研究部門から、X線像を光に変換した上で電気的に取り出して画像処理して出力する、という研究計画が出されました。その当時、X線フィルムを中心とした系では、これ以上の高感度化は困難と考えられるようになっていました。技術者が日々積み重ねた努力の賜物か、これ以上感度を上げようとすると、ノイズが多くなりすぎ、実用上無理があるところまで来てしまっていたのです。X線フィルムの研究をしているはずの技術者が提案したのは、X線フィルムを使わないイメージャー。既存の自社製品との競合を恐れず根本に立ち返って最適なものを出してゆく点では、果物の名前を冠した某IT企業が有名ですが、この提案もまさにそれでした。 そうはいっても、この時期(1970年代初頭)はX線フィルム事業の将来に不安はなさそうでしたし、化学に強い技術者は多かったのですがデジタル機器の開発に強い人材は多くはなく、残念ながら提案された時点では正式な研究プロジェクトにはなりませんでした。 ところが、安定しているはずのX線フィルム事業を第一次石油危機の大波が襲いました。前述のように銀価格が急騰したためにX線フィルム事業の採算が急速に悪化し、保留されていたX線イメージャーの研究に光があたることになりました。また、銀価格の問題と並んでこの研究を後押しした要因として、今日も使われている重要な画像診断技術であるCTとMRIが1970年代前半には医療現場で使われはじめていたこともあります。革新的なCTやMRIに対して、X線による診断はフィルムや装置の改善はあったものの、基本的なところは何十年も変わっていなかったのです。 こうした事情でプロジェクトが正式にスタートしました。その最初の難問は、X線像を光に変換して取り出す方法でした。X線イメージインテンシファイア、X線TV、熱蛍光などなど、その当時知られていた技術をいろいろと試してみましたが、センサーに使えそうなものはありませんでした。 最終的にたどり着いたのは、輝尽性蛍光という現象でした。普通の蛍光物質の場合、光を受けるとすぐに蛍光を発しますが、輝尽性蛍光の場合、光は物質にエネルギーとして蓄積されます。そして、そこに光があたると、あたった光よりも短波長の光として出てくるという不思議な現象でした。この現象は19世紀に発見されていて、何かに応用できないかと研究も行われたようですが、結局何に使えるのかよくわからないまま忘れられていたのでした。 X線を一度蓄え、そこに光をあてて出てきた蛍光をとらえる、これが新しいシステムの基本原理となりましたが、その当時知られていた化合物はあまり効率がよくありませんでした。そこで輝尽性蛍光を効率よく起こせる材料をつくるしかない、と化合物の研究から始めましたが、それがたいへんな研究になってしまい、ようやくこれという材料が決定されたのは1978年でした。しかも、最終的に選ばれた材料はというと、かつて他社が蛍光スクリーンの蛍光物質として使ったことのあるものでした(どうやら、他社の技術者はその物質が輝尽性蛍光材料として使えることに気づいていないようでした)。 輝尽性蛍光物質でX線を受けるプレート(イメージングプレートと命名されました)を中核とした新しい仕組みではありますが、医師が診断に使うものですので、開発グループは診断に使えるきれいな画像で、しかも医師が見慣れたX線フィルムに近いものにするために調整を重ねました。そして1971年の最初の提案から実に12年後の1983年、デジタルX線画像診断システムFCR(Fuji Computed Radiography)が発売されました。 ちなみに、センサーであるイメージングプレートだけでなく、読み取り装置や画像処理装置まで含むシステム全体の新規開発でしたので、グループはまったく違う分野のさまざまな技術者の集まりでした。特に開発のコンセプトを固めてゆく段階では、それぞれが抱える問題についてアイディアを出し合うことができるように、メンバーが大部屋に集まって仕事をしたそうです。また、分野が異なるとものの見方や考え方も異なるので、異分野の技術者が話し合いをする際には、自分とは違う考え方をしているかもしれない、ということを念頭に置いて話し合ったそうです。遊びも一緒に楽しんだそうで、(遊びといってもそこはさすがに技術者という感じですが)ホタルの光のスペクトルを分析して論文にしてやろう、とホタルを捕まえてきて測定してみたこともあったとか(測定した後で、先行する論文が多数あることを発見し、論文投稿はお流れになってしまったそうですが)。 そしてバイオへFCRが世に出た翌年の1984年、医療用X線画像診断システムのグループから異動したメンバーがイメージングプレートを用いた新しい装置の開発を提案しました。X線をとらえられるなら、科学研究で使われている放射性同位体のシグナルの検出にも応用できるのではないか、というのです。 たまたま同じ富士写真フイルムの中でも素材を研究しているグループが、京都大学と共同研究をしていました。1981年から科学技術庁からの委託研究で「DNA塩基配列決定用電気泳動膜」、つまり核酸電気泳動用のレディメイドゲルの開発でした。そこで、京都大学の研究者に依頼して、DNAの読み取り用に初期の実験用試作機を使ってもらうことにしました。 当初、新システムは今でいうシーケンサーとして考えられていました。DNAシーケンス読み取り用の場合は、サンプルをイメージングプレートに密着させて感光させるところが医療用X線画像と違いました。研究用途では感度が重要ですので、しっかり検出できるように、X線フィルムと同じこの方法が選ばれました。 最初の実験機に対する要求は2次元の画像ではなく、いわゆるプロファイルが見られるだけよかったのでした。しかし精細な放射線画像が得られることから、共同研究先の京都大学の研究者から同じく放射性同位体で検出しているタンパク質などの他のアプリケーションにも展開できるとの話が出て、この機械は研究用放射線画像の2次元解析システムと位置付けられることになりました。 バイオ研究のサンプルをあつかえるように機能のあわせこみはできましたが、これが本当に研究者に受け入れられるものかどうか調べてみよう、ということになりました。 試作機を用意してあちこちに貸し出すということも可能でしたが、実際に行われたのは、製品として売ってみる、というものでした。無料で使えるのであれば、少々問題があっても目をつぶってあげようと思うのが人情です。しかし、それでは装置の価値を正しく評価できません。このような装置を買ってまで行いたい実験がどれくらいあるのか、そしてこの装置で得られる結果は研究者にとって価格に見合ったものなのか?それを調べるために、市場調査用に10台組み立てて、販売してみることにしました。市場調査用の新製品は、バイオの画像解析装置なのでBioimage AnalyzerからBA、最初なので数字は1を入れるということで、BA-100という名前で、1987年に発売されました。 ※こういうわけで、2012年はライフサイエンス研究用RIイメージャーが世に出て四半世紀の記念すべき年ということになります。 BA-100は多くの生化学者から好評を得ましたが、その登場を特に喜んだのは、薬物動態の研究者でした。その当時、14Cで標識した医薬品候補の動きを知るためには、マウスをはじめとする実験動物をスライスした上でX線フィルムに重ね、1~数ヶ月かけて感光させる必要がありました。ところが、BA-100はたいへん感度が良く、これが1~2日で済んでしまうのです。このBA-100は最初の10台だけの試験販売にするつもりでしたが、このようなX線フィルムとは格段に異なる性能や使い勝手が好評を博し、予想以上に大きな反響があり、急遽追加製造することになるほどでした。 それでもBA-100のトータルの台数はあまり多くありませんでしたが、BA-100で得られた経験を活かした普及機であるBAS-2000が開発され、全国各地の研究施設に広がってゆくことになりました。ちなみに、BASはBioimage Analyzing Systemの略で、2000と数字の桁が上がっているのは、桁数が多いほうが商標登録しやすかったからだそうです。 謝辞本稿の執筆にあたり、宮原諄二氏(イノベーション・ファクター研究センター代表)および柴田広海氏(富士フイルム株式会社R&D統括本部研究担当部長)に多大なるご協力をいただきました。この場を借りて深く感謝申し上げます。 参考文献
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