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生化夜話 第38回:だいぶ意味が変わりました - アレルギーの語源

これもアレルギー

本稿のテーマであるアレルギーの話題に入る前に、19世紀終わり頃に本格化した抗体の研究で大きな業績をあげたエールリヒも触れておきたいと思います。

化学から医学へ - エールリヒの抗体研究

19世紀、ドイツの大学生は大学間を自由に移動することができました。その制度を活用して、医学生パウル・エールリヒもブレスラウ(現在はポーランドのヴロツワフ)、シュトラースブルク(同フランスのストラスブール)、フライブルク、ライプツィヒの大学を渡り歩きました。

そうした中でエールリヒは、恩師のヴィルヘルム・フォン・ヴァルダイヤーから組織学の新しい手法を学んだことを皮切りに、有機合成の大家アドルフ・フォン・バイヤー、世界で初めて真性細菌を分類したフェルディナント・コーン、凍結切片の作製法や炎症の研究で有名なユリウス・コーンハイム、デンマーク人の微生物学者カール・サロモンセン(後にグラム染色を開発するハンス・クリスチアン・ヨアヒム・グラムに微生物学を指導)、そして近代細菌学の開祖の1人ロベルト・コッホといった人々と知り合い、彼らから多くのことを学びました。

エールリヒが研究を始めた頃、成長著しいドイツ化学工業界は新しい化合物を続々と世に送り出していました。そんな背景もあって、エールリヒの最初の研究は新しい色素でとりあえず組織を染色してみることでした。彼の最初の論文は1877年のアニリンを用いた組織染色でしたが、その論文の中で、後に行う免疫研究の対象にする器官(リンパ系、胸腺、脾臓など)における血漿細胞の分布に特に強い興味を示しています。

エールリヒ以前の組織染色はとりあえず染色してから考えるといった経験の世界でしたが、エールリヒはここに化学の考えを持ち込みました。ある色素が特定の細胞をよく反応するということは、細胞の特定の基質と反応することを示しているとして、化合物の構造から染色の結果を解釈することを試み、細胞には特定の物質と結合するレセプターがあるのではないかと考えるようになりました。

大学卒業後、エールリヒはベルリンのシャリテ大学病院でフリードリヒ・フレリヒスの助手になりました。シャリテ大学病院では化学を医学に応用するための研究が盛んでしたが、フレリヒスはその中でも特に先進的な教授でした。フレリヒスはエールリヒを高く評価していたので、エールリヒは臨床よりも染色、血液学、生理学の研究に多くの時間を割くことができました。

しかし、フレスリヒの死去に伴い後任になったカール・ゲルハルトは、もっと臨床に時間を使うよう求めました。臨床よりも基礎研究に興味があったエールリヒは、シャリテ大学病院を離れて自分の私設ラボを開きました。

こうしてエールリヒは孤独な歩みを始めたかに思われましたが、ここで大学を渡り歩いた際の人脈が新しい道への扉を用意してくれました。

1891年、ロベルト・コッホは新設の衛生研究所の研究員として、優秀な若手を集めました。その中には北里芝三郎、エミール・アドルフ・フォン・ベーリング、リヒャルト・プファイファー(抗体という言葉の考案者)、そしてエールリヒがいました。

さて、ここで少々エールリヒの研究から離れ、病気の原因がこの時代にはどう理解されていたのかをご紹介します。悪い空気(瘴気)に触れることで病気になると考えるミアズマ説に代わって、微生物の毒素が原因であると考えられるようになっていました。

それではエールリヒの研究に戻りましょう。そうした当時の病気の原因についての考え方をふまえ、結核治療の研究において、分子の構造と機能の関係や、構造とレセプターとの結合について考察しました。さらに、エールリヒは免疫を担う物質を特定するために、植物毒素であるリシンとアブリンによる実験を行いました。その結果、免疫は細菌の毒素以外でも生じること、少量の毒素に対しても大量の抗血清がつくられること、抗血清の成分で免疫を担う抗毒素は血液中に存在する物質であること、抗毒素の反応は特異的であることを明らかにしました。

また、母乳に含まれる抗毒素の研究から、やはり抗毒素は血液に含まれる成分であり、特定の組織に含まれる物質ではないことを改めて示しました。

この後、1890年に北里とベーリングが発見したジフテリア抗血清を中心にエールリヒは研究を続け、力価の高いジフテリアの抗血清の調製法や、抗血清を正確に評価する方法を考案しました。こうした研究を通して、エールリヒは抗体についての考えをまとめました。多くの色素にはその結合特性を左右する側鎖があるように、細胞にもそれぞれの抗原に対応した側鎖(レセプター)があらかじめ用意されていて、抗原が大量に入ってくると、それに応じて大量の側鎖が形成され、細胞表面から脱落して血液中に放出されたものが抗体であるとしました。

エールリヒの側鎖説は一時的に流行しました。しかし、そもそもそれほど多数の抗原に対する抗体をあらかじめ用意しておけるものなのか、新規化合物のようにこれまで接触したことのない抗原に対する抗体も生じるのはどうしてか、という疑問が提起され、やがて側鎖説は廃れてゆきました。

なお、抗体は必ずしも細胞表面に結合しているわけではありませんが、1つの細胞に全部あるか、多数の細胞が1つずつもっているか、という違いはあるものの、エールリヒの側鎖説は後のバーネットのクローン選択説を一部先取りしているとも言えそうです。(もっとも、バーネットのクローン選択説にしても、まったく新規の物質に対する抗体ができる理由の説明にはならず、この点は1970年代の遺伝子再構成現象の発見によってようやく説明ができるようになります。)

さて、壮大な前置きはこのくらいにして、そろそろアレルギーに話題を移しましょう。

免疫の例外的反応?

ジフテリア抗血清を発見したベーリングは、破傷風も研究しました。その中で、破傷風菌で免疫した動物に、少量の毒素を注射すると、その動物が死んでしまうことがあると気づきました。同僚のエールリヒが発表した最新の学説である側鎖説でも説明がつかないこの現象を、ベーリングは例外的な反応として記載しました。しかし、この反応を例外的なものではないことを、ウィーンの小児科医が示すことになります。

小児科医の発見

20世紀初頭、ウィーンにクレメンス・フォン・ピルケという小児科医がいました。フォン・ピルケという名前が示す通り、貴族階級の出身で男爵位をもっていました。大学では貴族階級の子弟としては順当に神学と哲学を学びはじめましたが、医学に関心を抱くようになり2年で医学部に移ってしまいました。その当時、臨床医はオーストリア貴族にふさわしい仕事ではないと思われていましたので、ピルケの両親は落胆したそうです。

ピルケの父親は統計やグラフ分析などが趣味で、息子にも教えていたそうです。神学や哲学にはあまり関係のない素質を父親自身が涵養してしまったのですから、落胆するのもどうかと思います。それはさておき、統計やグラフ分析の知識は、後の研究で大いに役立ったようです。

ピルケはグラーツで高名な小児科医のテオドール・エスケリヒに出会い、臨床医の中でも小児科の道に進みました。ちなみに、エスケリヒは大腸菌の発見者です。E. coliのEはEscherichiaで、エスケリヒの名前に由来します。

19世紀末から20世紀はじめにかけて、小児科の重要課題は感染症でした。また、パスツールのワクチン療法、ベーリングのジフテリア血清療法、エールリヒの側鎖説といった新しい治療法や学説の影響を受けて、ウィーンの医学界では免疫も重要な話題になっていました。ピルケは免疫沈降の発見者であるルドルフ・クラウスに手ほどきを受け、小児科の臨床医としての立場から免疫学の研究を始めました。

ベーリングの抗血清の発見以降、ジフテリアや破傷風の治療に血清療法が行われるようになりました。血清療法とは、病原菌で免疫したウマをはじめとする動物から採取した抗血清を患者に注射する治療法です。抗血清に含まれる抗体を利用するわけですが、当然ながらこのような手荒なやり方ですから、抗血清に含まれる異種動物由来の成分やらさまざまな不純物が副作用を引き起こします。それが血清病で、代表的な症状としては、発疹、発熱、関節痛、リンパ節の腫脹などがあります。

エスケリヒが部長を務めるウィーン大学病院の小児科では、モーザーが猩紅熱の治療に血清療法を多用しており、ピルケは多くの患者の血清病を観察しました。多くの医師にとって、血清病は血清療法のやっかいな副作用でしかありませんでしたが、免疫に関心があったピルケは血清病の経過に注目しました。さらに、血清病の他にも天然痘ワクチン接種後の反応や、各種急性感染症の経過を臨床で観察しました。

こうした多くの臨床観察の結果を基に免疫について考察し、その概要を書簡にまとめて1903年にウィーン科学アカデミーに送付しました。たいへん珍しいやり方ですが、その書簡は封印され、著者のリクエストがあった場合にのみ開封されることになっていました(開封されたのはその5年後の1908年でした)。

その書簡でピルケは、感染から発症まで時間がかかる麻疹や天然痘をはじめとする発疹性疾患は宿主の応答によって発症するとし、症状は抗体と病原微生物(抗原)の相互作用に由来すると主張しました。結論から言えば、ピルケは自分の仮説を一般化しすぎで、麻疹の症状については免疫系の関与がありますが、天然痘の場合ウイルスによる直接の細胞変性ですので、ピルケの仮説とは異なる現象です。

それはともかく、ピルケはその後も抗原と抗体の相互作用に起因する疾患の研究を続けました。ピルケは動物実験や顕微鏡観察よりも臨床での観察を重視し、血清病や牛痘法(天然痘ウイルスと近縁で毒性の弱い牛痘ウイルスで免疫し、天然痘を予防する方法)に対する皮膚の応答の事例で、最初の接種と2回目の接種では反応が認められるまでの時間が異なることを観察しました。その結果から、病原微生物が抗体によって変化することで発症し、発症までの時間は抗体ができるまでの時間であり、2回目の接種ですぐに反応があるのは、最初の接触によって宿主の側に変化が生じているからだとの仮説を提案しました(その後、必ずしも病原微生物そのものの存在は必要ないことに気づき、病原性物質が抗体によって変化した場合に発症すると仮説を変更しました)。

1906年、牛痘法の皮膚の応答を血清病の知見で解釈したエッセイを発表しました。このエッセイのタイトルとして、「アレルギー」という言葉が初めて使われました。

その当時、ワクチンの接種から24時間以内に生じる早い応答は、過敏症と呼ばれていました。過敏症について、ピルケは免疫とは関係があるが相反するものだと考えていました。

ピルケの観点では、免疫とは異物が入っても臨床上の影響が現れないように、異物の影響を押さえ込むことでしたので、異物を経験した生物に生じる応答の変化を示す一般的な言葉が必要だとピルケは考えました。通常の状態や振る舞いとは異なるので、反応性の変化を示す言葉として、ギリシア語のáλλος(allos、英語のotherに相当)とεργον(ergon、英語のworkに相当)からアレルギーという言葉を考案しました。

この経緯から明らかなように、ピルケが考案したアレルギーは、特定の異物に対する過敏症を含んではいますがイコールではなく、免疫系のはたらきを広くカバーする言葉でした。

その後もピルケはしばらくウィーンで研究を続けましたが、1909年にジョンズ・ホプキンス大学の小児科教授に就任して研究から離れました。その1年後にエスケリヒの死去を受け大学病院小児科の責任者としてウィーンに戻りますが、栄養学を中心に研究を行い、免疫の研究にはほとんど関わりをもちませんでした。その当時の子どもの感染症対策として、もっとも大きな効果が得られたのは栄養状態の改善でしたので、臨床重視のピルケとしては、それは当然の選択だったのかもしれません。

ちなみに、ピルケの栄養学の研究の結果、多くの子どもが救われ、その功績を記念しピルケの名前にちなんでピルケガッセと名付けられた通りがウィーンにあります。

臨床から研究へ

さて、こうして非常に幅広い現象を包括する言葉として生み出されたアレルギーですが、意味が広すぎて違和感を抱いた研究者も少なくなかったようです。

早くも1914年には、抗原に対する超感受性とモルヒネ中毒のような抗原ではない物質に対する反応性の変化の2つに分けて考えるべきだとの提案があり、さらに1920年代に入ると、相反するものをひとまとめにしてしまっているアレルギーという言葉は使わないようにしようと提案する研究者まで現れました。

やがて、枯草熱(花粉症)、喘息、薬物への過剰反応に対する脱感作療法が行われるようになると、こうした症状を含む、あまり症状を限定しすぎない便利な言葉として、臨床の現場でアレルギーという言葉が頻繁に使われるようになりました。

Journal of Allergy(今日のJournal of Allergy and Clinical Immunology)の創刊号でも、アレルギーという言葉の科学的定義ははっきりしないものの、臨床ではアナフィラキシー以外の過敏症を示す言葉として広く使われていると紹介されています。

こうして臨床ですっかり定着したアレルギーという言葉は、臨床以外でも特定の抗原に対する免疫系の過剰反応を示す言葉として使われるようになりました。

アレルギーという言葉がなければ、過敏症と言うしかありませんが、Journal of Hypersensitivity and Clinical ImmunologyやClinical and Experimental Hypersensitivityなどという誌名では、少々間延びして響きがよろしくないかと。

参考文献

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