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生化夜話 第42回:フェアプレイへの長い道 - ドーピングと検査の生化学オリンピックをはじめとする大きなスポーツイベントがあると、好成績を挙げるために薬物を使用した、またはその疑いがあるとするドーピングが問題となりますが、今回はそのドーピングに関わる話題です。 東西冷戦の終結後、東側諸国で組織的に行われていたドーピングの事実が明るみに出てから、ドーピングについての関心は特に高まっています。 ドーピングという言葉は比較的新しく、英語の辞書にはじめて収録されたのは1879年です。その語源は2説あります。 1つは、元々は南アフリカで戦いや祭祀の折に興奮剤として用いられていた飲み物で、アフリカーンス(主にオランダ系移民)語ではdoopと記されるようになり、それが英語になった際にdopeという表記になった、とする説です。 もう1つはオランダ語のある種のソースを指す言葉がアメリカで薬物を使って盗みをはたらくことを指すスラングになり、これが定着したものとする説です。 どちらが本当かはわかりませんが、19世紀の終わり頃には興奮作用のある飲料全般を指す言葉として使われるようになりました。 このように言葉は新しいものの、能力向上ドラッグの使用そのものは、近代スポーツに限られません。紀元前からその例は多く記録されており、最古の例は紀元前668年にまで遡ります。 カフェインとキノコとコカ・コー○健康に害がない、または大きな悪影響がない無難なところではギリシアの運動選手は炭水化物を追加摂取するために蜂蜜を与えられており、ローマの剣闘士は興奮剤としてカフェインが与えられていました。 古代ギリシアの料理人は、ケシを使った料理をオリンピック選手に食べさせました。 また、オリンピックでは幻覚性のキノコも使われていました。 こうした不正行為は古代オリンピックでも禁止されており、死刑も含む厳しい罰則が設けられていました。しかし、既に廃れつつあったオリンピックを4世紀に正式に廃止したローマ皇帝テオドシウス1世は、廃止の理由として不正行為と薬物使用を挙げているくらいですので、前述の厳しい罰則もあまり効果がなかったのではないでしょうか。 古代中国でも、アルカロイドのエフェドリンを含む麻黄の抽出液が能力向上剤としてすすめられていましたし、古代インドとフン族では、動物の精巣を食べることがありました(今日の知識でいえば、精巣に含まれるテストステロンを経口摂取しようとした、ということになるでしょうか)。 その後もしばらく天然の植物やキノコの使用が続きましたが、時代を大幅に下って19世紀に入ると植物がもつ化合物についての知識が増え、ストリキニーネやカフェイン、コカイン、アルコールが使われるようになり、すぐに飲める調合済みの市販品が出回りました。そうした市販品の中で特に有名になったのが、フランスの化学者アンジェロ・マリアニが調合したマリアニ・ワインで、コカイン入りのボルドーワインでした。 マリアニ・ワインはたいへん有名になり、多くの競合品がつくられました。アメリカのジョン・ペンバートンの飲料も、そうした競合品の1つです。ペンバートンがつくったのはワインとコカイン、コーラナッツエキスからなる飲料で、後年、コカイン中毒が問題となってコカインを抜いたり、禁酒法対策でワインを抜いて炭酸水と組み合わせることにしたりと、いろいろな変化を経て、おなじみの赤い缶の炭酸飲料になりました。 さて、それはさておき、植物中の生体分子への理解の進展に合わせて、さまざまな物質が使われるようになり、それは程なくして過酷な勝負に臨むスポーツの世界にも広がってゆきました。 ダメだよというだけでは・・・近代スポーツにおける興奮剤の使用がいつからはじまったのかは、正確なところはわかりません。しかし、興奮剤の検査がはじまった時期についてはわかっています。20世紀初頭、オーストリアの競馬で全く予想外の結果がたびたび発生し、興奮剤の使用が疑われ、競走馬の唾液を試料として残留アルカロイドが調べられ、化学的な検査の最初の事例となりました。 ところが、競走馬については検査がはじまったものの、ヒトのスポーツ選手の検査には長い時間がかかることになりました。 1928年に国際陸上競技連盟は興奮剤の使用を禁止しましたが、検査は行われなかったので実効性はありませんでした。 合成されたアンフェタミンやメタンフェタミンが手軽に手に入るようになり、1950年代からドーピングに使われるようになりました。アンフェタミン自体は19世紀中に合成された化合物ですが、薬効がわかってきたのは第一次世界大戦後で、第二次世界大戦では兵士の疲労を忘れさせ注意力を高めるために使われました。戦後、それが民間にも広まったのでしょう。 興奮剤の使用が健康によいはずもなく、19世紀のうちに死亡事故が起こっています。フランスで行われた自転車レースに出場したイギリス人選手が興奮剤の過剰摂取で死亡しました。 こうした過去があってもヒトのドーピングを検査しようとする動きが具体化するのは1960年代に入ってからのことでした。 ドーピング検査に向けた機運が高まる契機となったのは、1960年のローマオリンピックでドーピングを行っていた選手の死亡事故でした。デンマークの自転車競技の選手が転倒して頭を骨折し、死亡しました。死因の検査のため、オートプシー標本が検査され、アンフェタミンが検出されました。アンフェタミンの過剰摂取が死亡の直接の原因にはなっていないようでしたが、それでもこの事故はスキャンダルとなり、ドーピングへの関心を大いに高めました。 世間の関心の高まりを受けて、国際自転車競技連盟と国際サッカー連盟は1966年にドーピング検査を導入し、国際オリンピック委員会も1967年に禁止薬物リストをつくり、1968年のグルノーブルとメキシコの大会からドーピング検査を開始しました。 いたちごっこの見本興奮剤を中心としたドーピング検査がはじまった1960年代末から1970年代はじめにかけて、検査に対応するためか、それとも単により効果的な薬物に移行したタイミングが合っただけかはわかりませんが、ドーピングの主流はアナボリックステロイドに移っていました。アナボリックステロイドは、栄養分からタンパク質をつくる作用を促進するステロイドホルモンで、ニュースではよく筋肉増強剤と称されています。 第二次世界大戦ではアンフェタミンと同様にテストステロンも兵士に投与されました。天然型のテストステロンは効果の持続時間が短いため、その点を解消したテストステロンアナログが大戦後に開発され、これがスポーツ選手の筋肉を増やすために使われるようになりました。 これに対して検査を行う側は対応策を考え、ステロイドの検査を導入しました。 ところが、ドーピングを行う側もすぐに対応し、内在性のテストステロンと区別できないように、アナボリックステロイドではなく、元になったテストステロンが使われるようになりました。 これに対しても、テストステロンとエピテストステロンの比率を調べる方法が考案されました。ただし、この方法は精度について異論もあるようですし、さらに巧妙化して、ホルモンの比率までコントロールしている例も出てきているようです。 さらに困ったことに、ドーピングに使われる新顔が登場しました。ヒトの成長ホルモンです。 脳下垂体から成長ホルモンが抽出されたのは1956年で、下垂体機能低下児の治療に大きな効果を発揮しました。 成長ホルモンを用いたドーピングがいつはじまったかはわかりません。当初は死体由来の成長ホルモンしかありませんでしたが、1987年に組換え技術を用いて製造された成長ホルモンが登場して、入手が容易になりましたので、この時期ではないでしょうか。 内在性の成長ホルモンとの区別が困難であることが人気を呼んだのか、シドニーオリンピックの半年前に、シドニーにある輸入業者の倉庫から1500本もの成長ホルモン剤が盗まれるという事件まで発生しました。 1989年に国際オリンピック委員会は成長ホルモンを禁止薬物リストに加えましたが、適切な検査方法がなく、規制は実効性を欠くものでした。後年、IGF-1とIII型プロコラーゲンをマーカーとした検出法が採用されましたが、成長ホルモンの使用と検出技術の開発には若干のタイムラグがありました。単にお財布事情が芳しくなかったのか、それとも成長ホルモンの使用が広まるとは想像できなかったのか、事情はわかりませんが、国際オリンピック委員会は当初は成長ホルモン検出のための研究に資金を供給しませんでした。そのため、成長ホルモンによるドーピングの検出技術の開発は出遅れたのです。 ヒトの体に作用する物質についての知見の増加に合わせて、新規の化合物や、既存の化合物の構造を少し変えた化合物が次々に登場したおかげで、禁止薬物リストの更新が間に合わなくなったのか、ある時期から禁止薬物リストの対象化合物名には決まり文句のように「and related substances(および関連する物質)」という表記がされるようになりましたが、今度はrelatedの定義がはっきりせず、議論の種が増えました。 高地トレーニングの代用品1990年代にドーピングでの使用がはじまり、持久力が鍵を握る競技で特に革新的といえる効果を発揮したのが、エリスロポエチン(しばしばEPOと略して表記されています)でした。エリスロポエチン発見の歴史も、それ自体で生化夜話1話分になるほどのものですが、ここでざっとご紹介しましょう。 1863年に、メキシコの高地に住む人々の血液は、海面近くに済む人々の血液に比べて粘性が高いことが報告されました。続いて1890年に、太平洋沿岸のリマから、高地にある鉱山町のモロコチャに旅をすると赤血球が増えることが報告されました。 こうした赤血球数の増加をコントロールしているのは何かという点が議論になり、1906年、パリ大学のポール・カルノーは、赤血球の生産は体液性のコントロールを受けているとする説を発表しました。出血後に赤血球を活発に生産しているウサギの血液を輸血すると、輸血されたウサギの赤血球も増加することをカルノーは仮説の根拠としました。しかし、カルノーの実験は再現性が低く、出血させる量や輸血する量によって結果がばらつきました。そのため、カルノーの仮説は、広く支持されるには至りませんでした。 しかし、1953年に別の研究者が多量の血漿を注射すると赤血球が増えることを示し、カルノーの体液性コントロール説が息を吹き返しました。 また、ほぼ同じ頃、カート・ライスマンは、低酸素状態に置いたラットの血液を、通常の環境に置いたラットに注射すると、両方のラットで赤血球が増加することを示しました。ライスマンは、低酸素状態のラットで何らかの物質がつくられ、それが赤血球の生産をコントロールしていたのではないかと考えました。その物質はエヴァ・ボンスドルフとイーヴァ・ヤラヴィストによって、エリスロポエチンと名付けられました。 1975年、熊本大学の宮家隆次がシカゴ大学に向かう際に、2500リットルの尿から濃縮した粉末を携えていました。この試料から1977年にはじめてエリスロポエチンが精製され、構造の決定をはじめとした生化学的な研究が大きく進む契機になりました。 こうしたエリスロポエチンに関する研究とは別に、持久力が鍵を握る競技では選手が取り込める酸素の量が重要であることが、スポーツ科学の研究で明らかになりました。この知見や高地で開催されたメキシコオリンピックでの経験から、高地トレーニングは強化トレーニングの定番となりました。 取り込める酸素の量、に大きく影響するのが赤血球の数です。この点を突いて、高地トレーニングをとばして赤血球を直接増やしてしまおうと考える選手がでてきました。彼らがとった方法は、競技前に輸血することで赤血球を水増しするという血液ドーピングでした。しかし、赤血球が入れ替わりの速い細胞であるため効果の持続時間が限られている上に、輸血はかなり面倒でリスクもある作業ですので、得られる効果の割にはマイナス面が大きいドーピング手法でした。 しかし、この状況を一変させる医薬品が1989年に登場しました。 バイオ医薬品の暗黒面?1989年、世界ではじめての組換えエリスロポエチン製剤がアメリカのアムジェンから発売され、貧血の治療に大きな効果を発揮しました。天然のエリスロポエチンとアミノ酸配列やジスルフィド結合は同一で、CHO細胞で発現させていました。 1991年、組換えエリスロポエチンを健常者に投与した場合の反応について報告されました。エリスロポエチンのはたらきから容易に想像できることですが、投与前に比べて赤血球が増えていました。この効果に目をつけたスポーツ選手、特に自転車競技とクロスカントリースキーの選手に組換えエリスロポエチン製剤の使用が広がりました。 組換えエリスロポエチン製剤はその基本的な構造(アミノ酸配列とジスルフィド結合)が天然エリスロポエチンと同じで、検出は困難でしたが、それでも検出方法は考案されました。検出が困難ならば成長ホルモンと同様にマーカーを、というわけで血清中の可溶性トランスフェリンレセプター濃度をはじめとする、いくつかのパラメーターを組み合わせて組換えエリスロポエチン製剤の不正使用を検出する方法が2000年に考案されました。しかし、この方法では力不足で、組換えエリスロポエチンが代謝されるまで、という時間的な制約はあるものの、直接検出する方法が模索されました。 天然ものと養殖もの組換えエリスロポエチンは、ヒトではなく動物の培養細胞で発現させるため、アミノ酸配列は同じでも、糖鎖修飾がヒトの内在性エリスロポエチンとは異なります。例えば、初期の組換えエリスロポエチンは、表面のシアリルガラクトースの数が少なく、電荷や分子量にわずかですが違いがありました。 また、CHOではなくBHK(baby hamster kidney)細胞で発現させることもあり、この場合にもグリコシルトランスフェラーゼの違いにより、糖鎖修飾に差がありました。 こうした製法の違いに起因する小さな違いを検出する方法として、アガロースゲル電気泳動が提案されましたが、ドーピング検査の現場での実績がなく、採用はされなかったようです。 同様にわずかな違いを検出できアガロースゲル電気泳動よりも再現性が高い方法として、等電点電気泳動も提案され、シドニーオリンピックで大いに苦労した世界アンチ・ドーピング機構は、等電点電気泳動による検出を公式の検査として推奨するようになりました。 このようなドーピング検査の歴史の中で、2012年のロンドンオリンピックでは日本製のImageQuant™ LAS 4000が組換えエリスロポエチン検査で採用されました。 また、ドーピング検査を直接の目的としているわけではありませんが、等電点電気泳動を行いつつ、抗体と化学発光の感度も活用する方法として、IPG DryStripとウェスタンブロッティングを組み合わせた興味深い手法も考案されています。 こうした検査技術の改善が抑止力となり、ドーピングを気にせずにスポーツイベントを楽しめる日が来ることを願って止みません。 参考文献
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