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生化夜話 第45回:血液製剤とパールハーバー
この時期ミュンヘンに滞在していたアメリカの生化学者エドウィン・ジョセフ・コーンは、ヴァイマル共和政が崩壊に突き進む様子を恐ろしい思いで見ていました。時代の激動はやがてコーンをも巻き込んで進んでゆくことになります。 シンプルな割に新しい怪我や手術などで足りなくなった血液を補う輸血は、原理はとてもシンプルですが、使われるようになったのは医学史の中では比較的最近のことです。 人間の体は、血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の4つの体液で構成されているとする四体液説は、古代ギリシアのヒポクラテスの叙述に端を発し、ローマ時代にガレノスが理論化しました。この理論はヨーロッパ医学では支配的な考え方となり、はるか後世、ルネサンスの頃まで信じられていました。四体液説によると、病気は4つの体液のバランスが崩れたことが原因であるとされており、その回復のために多すぎる血液を抜く瀉血療法も広く行われていました。 治療のためにわざわざ抜くくらいですから、血を外部から入れるという発想がこの時代にはなかったのではないでしょうか。また、解剖によって循環器についての知識が得られたのもルネサンスの時期ですので、それ以前の時代には、技術的に難しかったかもしれません。 記録に残る最初の輸血成功事例は、1666年、オックスフォード大学のリチャード・ロウアーが、失血したイヌに別のイヌの血管をつないで回復させた実験のようです。 続いて1667年、ヒトの治療を目的とした最初の輸血が行われました。フランスの医師ジャン=バティスト・デニが、子羊、子牛からヒトへの輸血を行ったのです。しかし、デニの輸血は失血に対する処置ではなく、精神的な問題の治療を目的としたものでした。四体液説に基づき、おとなしい性格の動物の血液を入れることで、問題を改善しようとしていたのです。 現代の知識からすると、種を超えた全血の輸血はとても危険な行為ですが、種によって血液は異なるものらしいということが知られるようになったのは、19世紀も後半、1875年に異種の血液を混ぜると溶血することが実験で示されてからのことでした。 ヒトからヒトへの輸血は、1818年にロンドンの産科医ジェームズ・ブランデルが最初に行ったようです。ブランデルは産科医として分娩後出血を数多く経験しており、出血による死亡を防ぐことを目的としていました。しかし、現代では当然のように意識されている血液型についての知識はまだなく、この時代の輸血は危険を伴う行為でした。 ウィーン大学のカール・ラントシュタイナーは、ヒト同士でも血液を混ぜると赤血球が凝集する場合があることから、ヒトの種内でもグループがあることを発見しました。ラントシュタイナーは血液をA型、B型、C型(今日のO型)に分類し、1901年に報告しました。 ただ、ドイツ語で書いた論文を、オーストリア国内誌で発表したことや、ラントシュタイナー自身が別の分野に研究対象を移してしまって血液型に関する続報を出さなかったこともあって、血液型の存在が世界的に認知されるようになったのは1920年代に入ってからのことでした。 備えあれば憂いなし、とはいうものの緊急時にすぐ使えるよう、輸血用の血液を備蓄しておく、つまり血液バンクをつくる活動は、1920年代にはじまりました。最初の大規模な血液バンクは、1930年代、スペイン内戦に際してバルセロナの医師フェデリコ・ドゥラン=ホルダンが組織しました。内戦の帰趨が明らかになると、ドゥラン=ホルダンはイギリスに避難し、ドイツと対決する可能性を感じていたイギリスの血液バンク整備にあたりました。 注:バルセロナは内戦に敗北した人民戦線政府側の要地 同じ頃、大西洋を挟んだアメリカでも、血液バンクの整備がすすめられていました。もちろん、備蓄しておくのが全血であるに越したことはないのですが、血液バンクの整備に当たり人々は赤血球の寿命を問題視しました。生体内でも赤血球の寿命は3ヶ月ほどで、血液バンクでは最良のコンディションであっても1ヶ月ほどにしかなりませんでした。 1940年にドイツのフランス侵攻が始まると、アメリカでの輸血用血液の準備もさらに熱心に推進されることになりました。全米研究評議会の輸血委員会は、アメリカ赤十字に対して、300,000単位の輸血用血液の準備を要請しました。しかし、困ったことにアメリカ赤十字の努力だけでは、求められた輸血用血液の準備は間に合いそうにありませんでした。そのため、血液由来の派製品や、代用品の必要性が高まりました。 代用品だった血液製剤出血や火傷の応急処置においては、血液の量と浸透圧の維持が鍵を握ります。この点では、全血ではなく、血液の量と水分のコントロールに重要な役割を果たしている血漿タンパク質だけでも効果が期待できました。 そこで、その代用品として、動物の血漿をヒトへの輸血に使えないか調べることにしました。そして、調査にあたったのが、ハーバード大学でアミノ酸やタンパク質の研究に携わった生化学者で、冒頭でもご紹介したエドウィン・ジョセフ・コーンと彼のラボのメンバーでした。 コーンの調査では、血漿タンパク質の中でも量が特に多く、浸透圧の維持に重要なアルブミンは、免疫グロブリンに比べて抗原性が低くヒトに投与できる可能性がありました。しかし、高純度のアルブミンを短期間で大量に調製する方法がないこともわかりました。 それまでの研究で、アミノ酸、ペプチド、タンパク質の振る舞いについての知見がコーンたちにはあり、それ基づいて1940年の夏までに、血漿タンパク質を分画する方法を開発できました。 その方法は、タンパク質の沈殿のために以前から広く使われている硫酸アンモニウムの代わりに25%程度のエタノールを使い、アルコールによるタンパク質の変性を防ぐ目的で温度は0℃以下に維持しました。さらに、プラントで大量に製造することが当初からの目的であったため、そのための工夫も行いました。タンパク質同士の相互作用を防ぐためには希釈することが好ましいのですが、製造の経済性を考慮すると、少ない容積で調製できる(=濃度が高い)方が経済性は高いので、その両立ができるバランスを探りました。また、透析プロセスも減らせるよう、塩濃度はできるだけ低く抑えました。 しかし、こうして分画法を開発したものの、やはりヒト以外のアルブミンでは安全性に不安があり、ヒト血漿の分画にも取り組むことになりました。 1940年8月、コーンの同僚のS・ハワード・アームストロング・ジュニアが、コーンたちの方法でヒト血漿の分画を行いました。ヒトアルブミンは40%エタノール、pH 5.5、マイナス5℃では可溶でしたが、pHを4.4~4.8にすると沈殿しました。こうして分画したアルブミンは電気泳動と超遠心で品質をチェックし、高い純度であることがわかりました。 この一連の結果に、アメリカ海軍が強い関心を示しました。出血のショックや火傷の処置のためには輸血が効果的ですが、海軍艦艇は根拠地を離れて長期の作戦行動を行うことがある上に、艦艇に積み込める物資の量にも限りがあるため、安定でコンパクト、そして簡単に使える血液増量剤として関心を示したのではないでしょうか。こうして、コーンたちの研究はアメリカ海軍と深い関わりを持つようになりました。 1941年4月、ハーバード大学の超遠心ラボの隣に、血漿分画のパイロットプラントの建設がはじまり、7月には試験用のアルブミンを送り出せるようになるほどの急ピッチで作業は押し進められました。その夏のうちにパイロットプラントでのルーチン生産の目処がつき、1941年の秋からヒトアルブミンの化学・臨床・免疫学的な試験がはじまりました。 アルブミンの品質管理では、浸透圧・粘性・光散乱の測定に加えて、電気泳動による均一性のチェックと超遠心による分子量のチェックもありましたが、その当時を振り返ったコーンは、著述の中で電気泳動と超遠心については、わざわざ開発者であるティセリウスとスヴェドベリの名前を出して説明しています。コーンにとって、電気泳動と超遠心から得られるデータがいかに重要だったかが伺えます。電気泳動を担当していたアームストロング・ジュニアの装置が、世界各国の需要に応えるためにティセリウスのラボで作られたものの1台だったかどうかは定かではありませんが、アームストロング・ジュニアはティセリウスのラボの手法を手本として実験していたようです。 化学・臨床・免疫学的試験が進み、いよいよ1942年1月26日から臨床試験を行うことになり、コーンたちは試験用のヒトアルブミンのボトルを用意しながら晩秋の日々を過ごしていました。 ところが、1941年12月7日(日本時間では12月8日)、日本海軍第一航空艦隊がアメリカ海軍太平洋艦隊の根拠地であるオアフ島の真珠湾を奇襲攻撃し、多数の海軍将兵が死傷しました。翌12月8日、医学研究委員会の議長からコーンに電話があり、すぐに真珠湾に送れるアルブミンがあるかを問われました。臨床試験用に用意されていたアルブミンは、その夜のうちに真珠湾に空輸され、出血でショック症状を示したり火傷を負ったりした将兵の手当に使われました。こうして、最初の血液製剤は臨床検査前に、その効果が戦場で実証されることになりました。 その後、ハーバードのパイロットプラントでトレーニングを受けた技術者を中心に血漿分画製剤の商業生産がはじまり、第二次世界大戦中に、多くの負傷者の命を救いました。また、アルブミンに続いて、フィブリノゲンやグロブリンなど、他の分画製剤の生産も行われました。 なお、界面活性剤や低温殺菌、カプリル酸処理などさまざまな方法によるウイルス不活性化、ナノフィルトレーションによるウイルス除去、最近ではシングルユース(=使い捨て)製品の導入など、安全性向上のための施策が何重にも施されていますが、コーンが1940年に確立したプロセスは、今日の血漿分画製剤製造においても中心的な役割を果たしています。 参考文献
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