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生化夜話 第15回:ある研究者の信念から生まれた産学連携油、洗剤、そして酒超遠心とコロイド研究の成果でノーベル化学賞を受賞したスヴェドベリは、ウプサラ大学物理学研究所の所長となりました。彼には、研究成果は製品化して社会に還元されねばならないという信念がありました。後に、弟子のティセリウスとクラーソンがスヴェドベリの業績をまとめたところでは、スヴェドベリが研究成果の産業化に関心を持つようになったのは、第一次世界大戦中だったそうです。これは筆者の想像ですが、航空機、毒ガス、戦車、潜水艦など、その当時の科学と技術が総動員されている第一次世界大戦の様子を見て、科学と産業の関係についていろいろと思うところがあったのではないでしょうか。彼の信念は、弟子たちに受け継がれ、やがてティセリウスが率いるウプサラ大学生化学研究所とファルマシアの共同研究や、ファルマシアを中核としたウプサラのバイオクラスター形成にも少なからず影響することになります。 さて、そんなスヴェドベリ門下の数名の化学者が、1930年代に油脂メーカーのLiljeholmen、洗剤メーカーのKema、酒造メーカーのBryggeriernaとそれぞれ共同研究を始めました。その関係を通じて3社の経営陣と親しくなったスヴェドベリは、彼らと相談して化学産業のための基礎研究を行う組織を、1942年にストックホルムに設立しました。前述の3社が出資した研究組織は、3社の頭文字からForskningslaboratoriet LKB(英語にするとResearch Laboratory LKB)と名付けられました。所長と主だったスタッフはウプサラ大学の物理学研究所出身者で、スヴェドベリも顧問に就任しました。 こうして、最初は産業応用を視野に入れた研究組織としてLKBが出発したのですが、その翌年、1943年にLiljeholmenの理事であるリュングレーフがスヴェドベリの元を訪れ、LKBの進路を大転換することになりました。 買ってこられないものは、作るしかない1943年、ノルウェーとデンマークはドイツに占領され、フィンランドは第一次ソ連・フィンランド戦争の失地回復を狙ってドイツと組んでソ連と戦争中という中で、スウェーデンだけは中立を維持していました。言葉の厳密な意味において中立だったかというとそうでもなさそうですが、スウェーデンが曲がりなりにも中立を保てたのは、北欧の他の国々(ノルウェー、デンマーク、フィンランド)と違って精強な軍隊を有しており、自国の領土、国民を自力で守ることができたのが大きかったのではないでしょうか(ソ連や北海に面しておらず戦場になりにくいという地理的要因もまた大きかったと思いますが)。「誰にも手は貸さない。でも、手を出したら噛みつくぞ」と言ってみたところで、実力が伴わなければ効果はないといったところでしょう。 ひとまず戦火は免れたとしても、周りはすべて戦場です。外国との貿易は激減し、輸入に頼る部分が大きい製品、物資の入手が困難になりました。その中には、研究に欠かせない各種の機器も含まれていました。リュングレーフとスヴェドベリは、この問題をスウェーデンの産業界にとっての大きな問題であると考えました。 また卑近な問題として、スヴェドベリ一門の依頼が多すぎて、ウプサラ大学の工作室が能力の限界に達していることも話題に上りました。 この話し合いで二人は製造を担当する別の企業が必要であるとの結論に達し、その年の内に設立されたのがLKB Produkter Fabriks AB(以下LKB)でした。LKBは科学機器部門と化合物部門からなり、前者はスヴェドベリの超遠心装置とティセリウスの電気泳動装置を主力とし、後者はもちろん輸入が途絶した化合物の供給を担当しました。 彼らのもくろみ通り、スウェーデン政府から、輸入が滞った天然ゴムの代わりになる合成ゴムと、鉱業で必要なフッ化水素の注文がありました。これがLKBが大きく飛躍するきっかけとなりました。しかし、化合物事業は終戦による貿易の正常化により、その使命を終えることになりました。 それって研究者の仕事ですか?大学の研究者による手作りの装置は、構造が原始的だったり悪い意味で芸術的過ぎたりして、熟練者でなければ使いこなせないことや、特定の目的以外には使えないことが少なからずありました。そのため、ウプサラ大学で開発された装置を主力とするLKBの科学機器部門では、装置の単純化が重要な課題となりました。 ちなみに、LKB設立から10年あまりが過ぎた1954年に、ティセリウスは研究者と機器メーカーの協力の効用について、そうした装置の改良ももちろん挙げていますが、もう一つ、研究者自身が装置の製作から解放されることも力説しています。 ある研究者が新しい手法と装置を開発すると同じことをしてみたい研究者から装置の製作を依頼されますが、その数が多くなると、研究者は製作作業に時間を取られてしまいます。それは研究者の本来の仕事ではないので、製作作業を機器メーカーに任せることで研究者は作業から解放され、研究に時間を使えるようになります。ティセリウスの研究室では新しい研究手法と装置を多数考案していますので、実際に製作作業に忙殺され、研究に時間が使えなくなるという問題が実際に発生していたのではないでしょうか。 どこかで見たような、、、当初はサイクロトロンや超遠心装置など、大型の機械も製造していましたが、やがて生化学の研究室で使うもっと手頃なサイズの機器を主力にするようになりました。例えば1954年には、フラクションコレクターを発売しました。
その8年後に発売した新型のフラクションコレクターは以下のようなもので、ここまで来ると、今日の研究室にあってもあまり違和感がないかもしれません。
LKBはクロマトグラフィーカラムも製造しています。1965年のカラムの広告には、こんな写真が載っていました。
何やらどこかで見たようなデザインです。ただし、LKBのカラムのキャップは青かったそうです。 時代は少し下って1982年、LKBはUltroSpecなる名前の分光光度計を発売しました。ひょっとしたら、今この記事をお読みの皆さまの中にも、LKB印の分光光度計を使ったことのある方がいらっしゃるのではないでしょうか。 ダブルワーク?1960年代中盤、それまではデキストランやその誘導体(Sephadex™)を事業の大きな柱としていたファルマシアが、LKBよりやや遅れて研究用の機器や消耗品の製造をはじめました。ファルマシアもよく似たデザインのカラムを作っていますが、ウプサラ大学のヤンソン教授によると、その当時はLKBとファルマシアの技術者の間に交流はなかったとのことでした。基本設計の出所が同じ(ウプサラ大学生化学研究所)なので、酷似してしまうのはむしろ当然なのかもしれません。その後も、カラムに限らず同じような目的の製品が登場することになります。例えば、ファルマシアはタンパク質精製用のFPLCシステムを発売しましたが、その頃にLKBはHPLCの製品を販売していました。 人口1000万人にも満たない小さな国で、ウプサラ大学の技術を製品化している会社が2つもあることが、非効率に思えたのでしょう。早くも1960年代中に、ティセリウスは両社の経営陣に、両社の統合を提案しましたが、この時は両社から拒否されてしまいました。この当時、LKBのオーナーはスウェーデンの大富豪ヴァレンベリ家でした。ハイテク企業として将来有望とされていたLKBには、ヴァレンベリ家の当主マルクス・ヴァレンベリが特に深い関心を抱いていました。 それから20年ほど、両社はそれぞれ生化学研究用の機器や試薬の販売を続けますが、1980年代に転機が訪れます。1986年にファルマシアがLKBを買収しました。 その当時のことを知るピーター・アーレンハイム(現Cytiva社長)によると、「LKBのオーナーが売却を希望し、ファルマシアにはそのための大金を支払う用意があった。LKBの経営層はあまり協力的ではなかった。ウプサラ大学はこの時の買収には関係していない」ということで、1986年の最終解決にはウプサラ大学関係者の関与はなかったようです。 当時のニュース記事を見ると、ファルマシアはLKB買収の直前にアメリカやスウェーデンの製薬会社を買収しています(当時のファルマシアには医薬品部門もありました)。この時期、ファルマシアは事業拡大のために積極的に買収を行っていたのかもしれません。また、ファルマシアのヒット商品FPLCの勢いが落ち始めており、LKBのHPLCをラインナップに加えることで、てこ入れしようと考えていたのかもしれません。 その後、ファルマシアは英国のアマシャムと合併し、さらにGEに買収されて今日に至ります。その流れの中でLKBの名前は消えてゆきますが、LKBの技術はImmobiline™ DryStripなどのLKBで開発された製品に生き続けています。 参考文献
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