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生化夜話 第20回:コピー機が結びつけた学際研究 - Biacore™夏休み前の暇つぶし?ジョンズ・ホプキンス大学の物理学者ロバート・ウィリアム・ウッドは、回折格子によってできる光のバンドが、媒質の反射率によってどう影響されるか調べてみました。回折格子を観察用の箱のガラスにくっつきそうなほど近づけ、箱の中に水とグリセリンで濃度勾配をつくってみました。夏休みの数日前だったそうなので新しい研究を始める気にもならず、暇つぶし程度のつもりでやっていたのかもしれませんが、この時、面白い現象を観察しました。肉眼でもはっきり分かる暗い色のバンドが現れ、そのバンドは屈折率が大きいところでは赤く見えました。 休み前の時期ということもあり、ウッドの報告は現象の記載にとどまっていますが、その論文の中で何らかの共鳴現象ではないかと推測しています。1902年のこの報告が、表面プラズモン共鳴(Surface Plasmon Resonance、SPR)の最初の記録ということになりそうです。ちなみに1902年はどういう時代だったかというと、日本に関して言えば、日英同盟が締結されたり、今も横須賀で見られる戦艦三笠がイギリスから日本に引き渡されたりして、ロシアとの戦争準備が進んでいました。ヨーロッパではドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の活発な外交活動がイギリスを苛立たせていた、そんな頃です。 そんな大昔に記録されてはいたものの、表面プラズモンについて具体的な話が出始めるのは、かなり時代を下って1950年代後半になってからでした。1957年、オークリッジ国立研究所のルーファス・リッチーが金属の薄膜の表面プラズモンについて記述しました。リッチーの研究は、薄膜の表面ではこういう現象が生じるはずだという理論的なものでしたが、それから数年で西オーストラリア大学のセドリック・パウエルとジョン・スワンが実験的に証明しました。 それからしばらく物理学的な研究の時代が続きますが、1980年代に入ると、SPRを使った生体分子の検出系が多数提案されるようになりました。スウェーデンのリンシェーピング大学に所属するボー・リードベリたちは、1983年にSPRを使ったガスや抗体の検出系を報告しました。リードベリの論文には装置の詳しい図解がありませんが、ガラスに金属の膜をくっつけ、その膜にガスの分子と結合する有機化合物や、抗体の標的になる抗原を結合させ、検出のための光は背面のガラス側からあてていました。一方、ケンブリッジ大学のデーヴィッド・カーレンたちは、金でコーティングした回折格子に対してサンプル溶液側から光をあてる方式を採用しました。 リードベリたちの方式では、プリズムの背面に適切な厚みの均一な薄膜を形成できるかどうかが感度の決め手になり、この点で大量生産には向かないとカーレンたちは判断していました。一方、カーレンたちの方法で決め手になるのは、回折格子の品質でした。この点については、その当時生産が始まったばかりの音楽用CDの技術を転用すれば解決できると考えていました。ただ、カーレンたちの方法は溶液を通して光をあてるため、サンプル溶液が不透明だと使えないという問題がありました。また、システムの構造に関係ない共通の課題として、標識が不要であるという利点の裏返しで、非特異的な結合が生じても区別できないことや、センサーに結合した生体分子のうちアクティブなものの割合がわからないことを挙げています。 コピー機が結びつけた学際研究イープルの遺産イープル(英語式に発音すればイーペルでしょうか)はベルギー西部の都市で、第一次世界大戦中に"あるもの"で大変有名になりました。"あるもの"とは、致死性の化学兵器、早い話が毒ガスです。1915年4月に、イープルでドイツ軍により毒ガスが初めて大量に使用されました(実際には同年1月にはロシア戦線で使用が始まっており、催涙ガスのような非致死性のものはその前の年から使われていたようですが)。その後、毒ガスは両軍によって広く使用され、大きな被害を出しました。 その様子に各国の関係者は深刻な危機感をいだき、戦争では中立を守ったスウェーデンでもそれは同様でした。1926年代にルンド大学、1928年にウプサラ大学で毒ガスの製造・検知・防御技術の研究が始まりました。その後、防衛軍化学研究所が設立され化学兵器の研究を担うことになりますが、1928年発効のジュネーブ議定書で化学兵器の使用が禁止されていたため、製造技術の研究は打ち切りとなり、検知・防御技術の研究が続けられました。 ジュネーブ議定書を批准していない国があったので、自分で使うつもりはなくても、使われた場合の備えはしておかなければならなかったのです。 その後、防衛軍化学研究所は国立防衛研究所に吸収され、化学兵器の研究も引き継がれました。 そして時代は下って1980年、検知用のバイオセンサーに使う抗体を製造しようということになりました。タンパク質の生産や精製の経験が豊富なウプサラ大学のスタッフが呼ばれ、その中にマグヌス・マルムクヴィストというポスドクがいました。マルムクヴィストはゲルろ過で有名なポラートから生化学を学び、博士課程ではアガロース分解菌やその分解酵素の研究をしていました。ポスドクでは、生物物理学に進んで物理学の視点や手法を身につけており、これが後に役立つこととなりました。 懐かしい響きある日、マルムクヴィストはいつものように仕事で使う資料をコピーしに行くと、偶然にも懐かしい響きが耳に入ってきました。研究所は南北に長いスウェーデンのやや北寄りのウメオにありましたが、マルムクヴィストはそこから1000キロ以上離れた南部の出身でした。日本でも同じくらい距離が離れれば、相当に言葉が違うように、スウェーデンにも当然方言があります。自分と同じ方言を使う仲間を発見したマルムクヴィストは、同郷と思われる若い技術者に早速話しかけてみました。案の定、その技術者、ウルフ・ヨーンソンも同じ地方の出身者で、電極を使った電気生理学的測定系の構築のために来ていました。 生化学が主でしたが物理の話もできるマルムクヴィストは、ヨーンソンと話が合い仕事の相談もするようになりました。やがて、彼らはその当時広く使われるようになっていたバイオセンサー、エリプソメーターの改良に取りかかりました。 ところが、バイオセンサーの話が面白くなってきた1982年9月、マルムクヴィストの就職が決まってしまいました。マルムクヴィストは、ファルマシアの診断薬部門であるファルマシア・ダイアグノスティクスで、アレルギー治療のためのPEG修飾タンパク質の研究をすることになっていました。 こうして中断するかに見えたバイオセンサーの研究ですが、ファルマシア・ダイアグノスティクスの研究部長ウルフ・ルンドクヴィストは、マルムクヴィストがウメオに残って研究を続けることを許可してくれました。 前?後?身分はファルマシア・ダイアグノスティクスの社員になったものの、ウメオの防衛研究所に残ることができたマルムクヴィストは、スウェーデンのバイオセンサー研究で中心的な役割を果たしていたリンシェーピング大学のルンドストレーム研究室の力も借りて研究を本格化させました。ちなみに、前述のボー・リードベリもルンドストレーム研究室のメンバーでした。 彼らは、すでに使い方を知っていたエリプソメーターの改良から手を付けることにしました。まず取り組んだのが、センサーに使うシリコンウェハーの表面を蒸着でシラン修飾する方法でした。シラン化はクロマトグラフィーや生体分子の固定などでよく使われる表面修飾でしたが、溶液中での反応だったため、厚みが均一になりにくい欠点がありました。さらに、シラン粒子が沈澱することもあり、バイオセンサーのチップとしては、再現性の点で問題が多く、異なる研究室のデータを比較するにも不便でした。そこで、化学で使われるようになった蒸着を試してみたのでした。 また、当時のエリプソメーターはミリリットル単位のサイズのキュベットを使用していたため、再現性が低くサンプルが大量に必要なのも困ったところでした。デッドボリュームが小さく、途切れることなくサンプル溶液とバッファーを切り替えられる、フローインジェクションシステムと微小流路系の構築にも取り組みました。 そんな改良を続けている1984年、彼らに転機が訪れました。ファルマシアの経営陣に対して、バイオセンサー研究の成果を披露する機会を得たのです。彼らはバイオセンサーの何たるか、そしてその可能性をうまく経営陣に伝えることに成功しました。バイオセンサー研究は正式にファルマシアのプロジェクトとなり、ファルマシア・バイオセンサーという新しい会社が設立されました。ファルマシア・バイオセンサーでは、研究用機器・試薬部門のファルマシア・バイオテクのメンバーも加わって研究を進めることになりました。 新入社員に本来の業務とはまったく違った研究を許し、新会社まで設立してしまうとは、何とも気前のよいことです。種明かしをすると、その当時、眼科用のヒアルロン酸事業が大当たりしたおかげで、ファルマシアは経済的に非常に余裕があったのです。早い話が、金持ちはなんでもできる、というわけです。 1985年までの論文を見る限りでは、この時期の開発はエリプソメーターを軸に進んでいたようですが、彼らの研究は以下のような問題に突き当たります。
結局、エリプソメトリーの持ち味を生かせないのであれば、溶液を通してあてた光の反射を拾うよりも、背面から光を当てて測定する方がシンプルになるという理由で、以前リードベリが試したSPRを使ったバイオセンサーに研究をシフトしました。 危うくバコアに?そして新しいバイオセンサーがそれなりに使えるようになってきた1988年、ファルマシアの経営陣に対して研究の成果を報告しました。ヨーンソンはProtein A/抗体の相互作用、ゲルろ過後の特異的IgGの連続測定という2つの事例を紹介しました。この時のスライドの1枚目には、バイオセンサーの特長が列記されており、その一番下にはバイオセンサーの重要性を示すためにマルムクヴィストが捻り出した"Biosensor A Core Technology"というフレーズが示されていました。 "Biosensor A Core Technology"が、翌1989年の間に"Biomolecular Interaction Analysis core technology"に変わり、1990年に発売されたファルマシア・バイオセンサーの最初の製品は、そのフレーズの略でBIAcoreと命名されました。もし、誰もフレーズに手をつけていなかったら、BAcore(バコア)だったかもしれません。 参考文献
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