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生化夜話 第21回:民主化運動が生んだRNA抽出法1950年代から1960年代にかけて、DNAからタンパク質への情報伝達をRNAが担っていることが実験で確かめられ、遺伝子の発現を研究する際のターゲットとしてRNAの抽出が盛んに行われるようになりました。 その方法としては、酸性のフェノールを使う方法(DNAに比べてRNAは水酸基が1つ多い分だけ親水性が高いので、DNAはフェノール相に、RNAは水相に分配されます)や、セシウム密度勾配遠心(RNAの浮遊密度がDNAやタンパク質より高いのを利用してRNAだけペレットにします)が使われていました。とにかくRNAの性質を調査するといったテーマであれば、抽出しやすい試料から取るという選択が許されます。しかし、研究が進んでさまざまな細胞からRNAを抽出するようになると、内在性のリボヌクレアーゼ(RNase)活性が強い試料もあつかう必要に迫られるようになりました。この問題には、ヘパリンや、ヨード酢酸、界面活性剤をフェノールと組み合わせてRNaseの活性を阻害するなどの対策が採られました。 1970年代後半、カリフォルニア大学のジョン・チルグウィンは膵臓のRNAを研究しようとしました。しかし、膵臓は大量のRNase Aを含み極端にRNase活性の高い組織です。抽出するために細胞を壊すと、たちまち大量のRNase AがRNAを分解してしまいます。チルグウィンは、まず既存の方法でRNase Aの阻害を試みましたが、阻害が分解に追いつきませんでした。 ちょうどその頃、塩酸グアニジンを使うと効果的にRNase Aを失活させられることが報告されました。この時期には、RNase Aについての研究がある程度進んで、膵臓のRNase Aの変性における遷移状態は変性状態に近いことがわかっており、それを活用してカオトロピック試薬の塩酸グアニジンで平衡変性の背中を押してやると、頑固なRNase Aも迅速に変性するというのがその趣旨でした。また、それとは別に、塩酸グアニジンよりもチオシアン酸グアニジンの方が、カオトロピック試薬として強力であるという報告もありました。そこで、チルグウィンは、チオシアン酸グアニジンを使ったRNA抽出法を考案し、その後の実験に十分な品質のRNAを膵臓から抽出することに成功し1979年に報告しました。 しかし、チルグウィンの論文に記載された方法は、何度も遠心したり、-20℃で一晩置いておかなければならなかったりと、なかなか煩雑でした。その方法を読んで、RNAを抽出するのにここまでやりたくないと感じたのは、ものぐさな筆者だけではなかったようです。チルグウィンの論文には、チオシアン酸グアニジンを加えてホモジナイズしセシウム密度勾配遠心で分離するだけの別法も短く紹介されており、こちらの別法の方が広く普及してゆきました。 多サンプル処理できるようにしてみましたチルグウィンのチオシアン酸グアニジン・セシウム密度勾配遠心で得られるRNAは高純度で、作業の手間も他の方法ほどではなかったので、1980年代前半のRNA研究でよく使われていました。しかし、時間のかかる超遠心が必要なので、多数のサンプルを並行して処理するのには向いていませんでした。 そこでNIHのピオトル・チョムジンスキーは、チオシアン酸グアニジンと昔ながらのフェノール・クロロホルム抽出を組み合わせ、超遠心機がなくても使える簡便な方法を開発し、1987年に発表しました。チョムジンスキーは、酸性グアニジン・フェノール・クロロホルム(Acid Guanidinium Phenol Chloroform)の頭文字をとって、自分の方法をAGPC法と命名しました。AGPC法は普通のラボにある遠心機が使え、操作も簡便、さらに小スケールでも使用可能だったので、チルグウィンのチオシアン酸グアニジン・セシウム密度勾配遠心に代わって、たちまちRNA抽出の主役となりました。 チョムジンスキーは、既存のチオシアン酸グアニジン・セシウム密度勾配遠心は、多サンプル処理に向かないので、そこを改善した、と論文に書いています。ところが、AGPC法は既存の手法の改善を目指したものなどではなく、必要に差し迫られて仕方なくやってみた緊急措置だったのです。 超遠心機?それどころじゃないよ科学論文というものは、大抵はある種の後付けの合理化を含んでいる。 こう書き残したティセリウスなら、その合理化前のできごとを正直に記したチョムジンスキーに天国から拍手するかもしれません。 チョムジンスキーは元はポーランド人で、アメリカに滞在してNIHのプラドマン・カスバ研究室で乳タンパク質の発現を研究していました。カスバの研究室で使われていたRNA抽出法は、ご多分に漏れず当時の主流であったチオシアン酸グアニジン・セシウム密度勾配遠心でした。 1982年、チョムジンスキーはポーランドのワルシャワ農業大学に戻りました。帰国後もNIHと同じように遺伝子発現の研究を続けるつもりだったのですが、戻ってみるとそこには超遠心機がないではありませんか。これでは肝心のRNAを抽出できません。しかも、その当時ポーランド政府は生物学研究のために超遠心機を買うような余裕はなかったのです。 チョムジンスキーは、ポーランド政府は他のことで動転しすぎていて研究活動を支援できなかった、と表現していますが、「他のこと」とはなんだったのでしょうか。ちょっとポーランドの歴史を振り返ってみましょう。
このように、ポーランドの民主化運動が激化し、政府は科学の前に自身を守らなければならないという状況だったのです。 そんなわけで、チョムジンスキーは遺伝子発現の研究を続けるには、超遠心のステップを含まないRNA抽出法を見つけるしかなかったのです。そのためにいくつもの方法を試したそうなので、おそらく超遠心機を使わずにできる既存の方法をいろいろやってみたのでしょう。その後、チオシアン酸グアニジンと伝統的なフェノール抽出を組み合わせてみたところ、その方法では最初から実験に十分な品質のRNAを抽出できました。 その成功に気をよくしたチョムジンスキーは、条件検討を重ねて、酢酸ナトリウムバッファーでpHを4に合わせた溶液が特に良好であることを発見しましたが、ここでこの方法の追求を打ち切ってしまいました。遺伝子発現の研究を続ける「もっとよい方法」に気付いてしまったのでした。それはアメリカのNIHに戻ることでした。そこには超遠心機があるので、わざわざ新しい方法を工夫する必要などありません。 そうは問屋が卸さないNIHに戻ったチョムジンスキーは、イェール・トッパー研究室でカゼインの発現研究に加わりました。その研究は複数のホルモンによるカゼイン遺伝子の調節を調べるもので、多種多様なサンプルのRNAが必要でした。方法はチオシアン酸グアニジン・セシウム密度勾配遠心ですので、当然、何台もの超遠心機をチョムジンスキー1人で占領してしまうことになりました。しかし、いくらNIHと言っても超遠心機の台数には限りがあります。そこで、チョムジンスキーの言を借りれば「時間の節約と周囲との関係を守る」ために、ワルシャワで試していた方法を復活させることにしました。 NIHでも試験結果は良好で、同僚のニコレッタ・サッチにも好評だったので、その方法を論文にすることにしました。こうして発表されたのが1987年のAGPC法の論文だったのです。 その後、チョムジンスキーはAGPC法の試薬とプロトコールを改良し、1つの試薬でRNA、DNA、タンパク質(変性しているし、定量研究には向きませんが)を抽出できるようにしました。チョムジンスキーは1993年に改良法の論文を発表し、その試薬はいくつかのメーカーで製品化されました(1993年のチョムジンスキーの論文によると)。その試薬は有名な実験マニュアルMolecular Cloningにも掲載されました。 ※最近ではスピンカラムを使って同様にRNA、DNA、タンパク質を抽出できるキット市販されており、こちらはAGPC法とは異なり劇物のフェノールが不要です。 参考文献
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