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生化夜話 第4回:きっかけは電気泳動装置のスイッチの入れ忘れ2回に分けてタンパク質の研究に使える電気泳動法の確立と今日の研究現場でよく使われるアガロースとアクリルアミドを担体とした電気泳動の開発の流れを辿ってきました。今回は、その流れから枝分かれした支流とも言える技術の揺籃期を眺めてみたいと思います。 ティセリウスの現実逃避タンパク質の研究には使いにくかった電気泳動法の改良を目指したティセリウスは、1930年にその最初の取組みの成果を学位論文にまとめました。その論文は、上司のスヴェドベリや大学の教授たちには受けが良かったのですが、当のティセリウス自身は電気泳動のはっきりしない結果に嫌気が差していました(第2回参照)。そこで、傷心のティセリウスは、まったく違う分野である沸石(ゼオライト)の研究に取り組むことにしました。その当時、結晶中に微細孔をもつ沸石は分子ふるい(molecular sieve)として使えることが知られるようになってきており、後に生体分子の分離、精製技術の大家となるティセリウスらしい現実逃避とも言えそうです。沸石の結晶格子に水を拡散させる実験を行うなどしていましたが、しばらくして電気泳動法の研究に戻ったために、この時の沸石の研究はあまり発展せずに終わっているようです。 余談ですが、一部の資料では「molecular sieve」という用語はマクベインによって1932年に命名されたということになっているようです。しかし、シャーマンが1999年にまとめた人工ゼオライトに関する総説によると、1926年までにマクベインは菱沸石の微細孔による吸着を利用して小さな分子と大きな分子を分離できることを発見しmolecular sieveと命名しているようです。実際、沸石ではありませんが、1928年の論文でマクベインがmolecular sieveという言葉を使っています。 吸着を利用するという点に関して、後に電気泳動法の開発などを経て生体分子の分離、精製技術全般に興味を持つようになったティセリウスは、吸着を利用して酵素を分離する方法を研究しました。酵素の精製には、長い間リン酸カルシウムに吸着させる手法が使われていましたが、実験の途中でリン酸の性質が変化してしまうことがわかってきました。そこで、ティセリウスは変化しないよう安定な修飾を施してみました。この修飾を施したリン酸カルシウムが、今日タンパク質の精製に使われているタイプのハイドロキシアパタイトの元祖です。 ティセリウスのゾーン限外ろ過分子量やサイズで生体分子を分離できないか、と考えたティセリウスは、分子ふるいの応用を試みゾーン限外ろ過(zone ultrafiltration)なる手法を考案しました。ティセリウスの自伝にすらゾーン限外ろ過の文献が示されていないため詳細はわかりませんが、ティセリウスによるとゾーン限外ろ過は彼がよく知る技術である電気泳動と超遠心の延長ということなので、電気泳動用カラムに分子ふるい効果をもつ担体をつめて遠心装置で盛大に振り回す、といった手荒な方法だったのではないかと筆者は想像しています。 ゾーン限外ろ過に使うカラムが高圧ですぐに壊れてしまうことに悩まされたティセリウスは、1952年にノーベル化学賞を受賞することになる英国の化学者リチャード・シングに、ゾーン限外ろ過を改良できないか相談しました。両者は単純な物理力ではなく電気浸透で行うのがよいとの結論に達し、1950年にアミロースの加水分解産物の溶液を電気浸透で寒天ゼリーに通して分子ふるい効果で分離できることを示しました。電気泳動が電荷をかけることで溶液中の荷電した分子を動かすのに対して、ゾーン限外ろ過では電気浸透現象で溶液全体を動かすので、荷電していない分子にも使えることが電気泳動とゾーン限外ろ過の違いでした。 ところで、そのゾーン限外ろ過がどうなったかというと、NCBIのPubMedで検索してもzone ultrafiltrationという言葉を使った報告が1つも出てこない(2008年8月現在)ことから、まったく流行らなかったのではないかと思われます。 ウプサラ大学生科学研究所の運営や後進の指導で忙しくなってしまったからか、これ以降、分子量やサイズで生体分子を分離する技術の開発からティセリウス自身は手を引いてしまったようです(本当にこの分野の研究を止めてしまったのか、研究は続けていたものの成果が出なかっただけなのか、実際のところはわかりませんが)。しかし、ティセリウスの薫陶を受けた新しい世代の研究者たちが、ちょっとした失敗から新しい技術を開発することになります。 無電流電気泳動?ティセリウスの研究室に所属していたイェルケル・ポラートは、デンプン粒をパックしたカラムで電気泳動を行っていました。1950年代はじめのある日、ポラートはいつものように電気泳動を行ったつもりでした。溶液に含まれている低分子は確かにそれぞれ分離していたのですが、ポラートは大変なことに気が付きました。電気泳動の実験だというのに、肝心の電流を流し忘れていたのです。 この実験はミスで失敗、と片付けてしまっていたらそれまでですが、ポラートはこの不可解な出来事をもう少し調べてみることにしました。その結果、分子は分子量で分離されていたこと、低分子は速く移動し高分子は遅くなる電気泳動とは逆に、高分子は移動度が大きく低分子は移動度が小さいことがわかりました。 ポラートの発見は今で言う「ゲルろ過」であり、分子量で分子を分離する画期的方法として大々的に発表してもよさそうなものです。しかし、その当時使っていたデンプン粒は、不安定で組成がはっきりせず、しかも溶液を流しにくいという欠点があり、それを解決できなかったポラートは発表を見送りました。 架橋デキストランと脱線その数年後、電気泳動の研究に戻っていたポラートは、ティセリウスの研究室を出てファルマシアに入社していた元同僚のペル・フローディンと、電気泳動用の理想の担体を合成できないかと検討を重ねていました。ファルマシアのラボに架橋デキストランのボトルが置いてあったのを、フローディンが思い出しました。その架橋デキストランは、代用血漿の材料として製糖会社から納品されたデキストランをいろいろと加工してできたものの1つで、製糖会社が興味を示さなかったために、ファルマシアのラボに長らく放置されていたものでした。 電気泳動用の担体として使えるかどうかを検討するために、架橋デキストランの吸着特性を調べ始めたポラートは、かつての電流を流さない電気泳動の研究を思い出しました。ポラートとフローディンは、結局デキストランを使った電気泳動は行わず(デキストランを担体とした電気泳動は、アガロースやアクリルアミドを使った電気泳動の発展に貢献したヤティーンが後に試したようです)、分子ふるいとしての特性の研究に進んでゆきました。こうして電気泳動から脱線してゆくポラートを、上司のティセリウスは暖かく励まし、いろいろと助言していたようです。 架橋デキストランは分子ふるいとして大変良好な性能を示し、また孔のサイズを調整できるので便利であったことから、ファルマシアの製品プロジェクトとなりました。架橋デキストランそのものの開発はファルマシアにいたフローディン、その架橋デキストランを使った新しい分離、精製手法の確立はポラートが受け持つという分業体制で開発が進められていたそうです。そして、1950年代も終わろうとする頃、改良された架橋デキストランを用い、分子量の違いによって分子を分離する新しい手法を公表する準備が整いました。その当時、彼らは新しい手法を分子ふるい、限定拡散といったごく平凡な名前で呼んでいたようですが、ティセリウスのすすめに従ってゲルろ過(gel filtration)という名前を用いることにしました。 ゲルろ過の学会発表の明暗ゲルろ過の最初の発表は、1959年5月、ベルギーのブルージュで開催されていた学会でのポラートによる講演でした。ポラートの述懐によると、この時、会場からはほとんど反応がなかったそうです。同じ年、Natureに掲載されたゲルろ過の最初の論文についても、その年の内はほとんど関心を持ってもらえなかったとポラートは述べています。ポラートは目的とする分子の大きさに応じてゲルろ過用担体はカスタムすべきと言っていたようなので、そのあたりが面倒に感じられてしまったのかもしれません。 一方、同じ年にアメリカの学会で講演したフローディンは会場から大きな反響を呼び起こし、ファルマシアには発売したばかりの架橋デキストランの注文が殺到、フローディンの講演から2週間でアメリカのピスカタウェイの倉庫にあった在庫はすべて売れてしまいました。 Sephadex™ティセリウスによると、ゲルろ過と同様の手法の研究は他の研究室でも行われており、その中でもポラートとフローディンの手法が普及したのは、担体の架橋デキストランによるところが大きいそうです。その架橋デキストランは、Separation、Pharmacia、Dextranの最初の数文字を合成してSephadex™と命名され、1959年のポラートとフローディンによるゲルろ過の最初の論文にもその名前で記載されました。 1959年に製品化された最初のSephadex™ G-25、G-50と、続く1960年のG-75は、架橋によって重合させたデキストランの塊を粉砕してつくられていました。そのため、粒子は不均一で、使用前の準備に時間がかかり、大きなタンパク質の分画には使えないという欠点がありました(それでも当時は画期的だったのですが)。この製造法に起因する問題点は、早くから認識されており、今日あるようなビーズ状にするための調製法開発が1959年から進められました。 1962年にはビーズ状の最初の製品Sephadex™ G-100、G-200が発売されました。この1962年に、フローディンは完成したばかりのSephadex™ G-200を使って血清タンパク質を分画した論文を大変短期間で書き上げて発表し、新しいSephadex™が複雑なタンパク質の混合物の分画に使える性能をもつことを示したのでした。フローディンがこの論文を大急ぎで仕上げた理由は、他の会社に転職することが決まっており、移籍前に論文を出して学位をとってしまいたかったから、だそうです。1963年には既存の製品もすべてビーズ状になり、今日と変わらないものになりました。 なお、Sephadex™ G-XXのGはGelのG、XXの数字は乾燥した1 gの担体が吸収する水の重量です。まったくの余談ですが、資料収集の際に1963年のScience誌にSephadex™ G-100の広告が出ているのを発見しましたので、ご紹介します。→1963年のSephadex™ G-100の広告 参考文献
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