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生化夜話 第23回:ノーベル賞研究を支えた架空の紙? - ペーパークロマトグラフィー

クロマトグラフィーでお絵描き

技術・手法・器具などの歴史をあつかう上で、その起源をいつにするかというのはなかなか難しい問題です。例えば、きわめてありふれた実験器具、ペトリ皿(シャーレ)ですら、その開発者が誰だったのかはっきりしません。よく調べてみれば、定説よりも早い時期に先行事例が存在していたり、いくつもの段階を経て徐々に今の形になっていたりと、悩ましい状況も少なくありません。

実は、クロマトグラフィーにもそういう話があります。教科書的には20世紀初頭に行われたロシアのツヴェットの実験がはじまりとされており、クロマトグラフィーという言葉を考案したのもツヴェットですので、クロマトグラフィーの始祖をツヴェットとすることに異論はなさそうです。しかし、ツヴェット以前に何もなかったのかというと、そうではなく、先行事例と呼べそうなものもあったのです。

単に現象を利用するだけということであれば、1世紀のローマ人、ガイウス・プリニウス・セクンドゥスの著書「博物誌」に、クロマトグラフィーの原理が利用されていると思われる記述があるそうです。さすがにこれは古すぎますし、現代のクロマトグラフィーとの間に何の技術的関連もないので置いておくことにしますが、もう少し新しい時代にも事例がありました。

文学中年の悲劇?

19世紀ドイツにフリートリープ・フェルディナント・ルンゲという分析化学者がいました。

生年は1794年、テルミドールのクーデターでフランス革命が実質的に終わった年です。ハンブルク近郊の村の貧しい家庭の出身で、ナポレオン・ボナパルトによる大陸封鎖令でハンブルクの経済は落ち込み、かなり困窮した少年時代を過ごしたようです(ハンブルクは貿易を基盤とする交易都市で、その当時最大の工業国であったイギリスとの関係を断ち切られたことは大きな打撃でした)。

成長したルンゲはいくつかの大学で化学や薬学などを学びました。在籍した大学の1つがイエナ大学で、在学中のルンゲの研究テーマは植物から毒素を分離するというものでした。化学の教授はルンゲの研究を大いに気に入り、イエナに住んでいたゲーテ(ファウストや若きウェルテルの悩みを書いたドイツを代表する文豪、あのゲーテです)に、ルンゲを紹介してくれました。

ルンゲは、ゲーテを訪問して毒素に関する研究成果を披露しました。ルンゲが書き残しているところによると、その内容に感銘を受けたのか、これの成分を調べてみてくれ、とゲーテからコーヒー豆が入った箱を渡されたそうです。その豆の成分を抽出してみたところ、苦味のある白い結晶が得られました。世界で初めてカフェインが分離された瞬間です。一般には、ルンゲはこのカフェインの分離で知られていることが多いようです。

いくつかの大学で学んで博士号を取得し、最終的にルンゲはドイツ東部のオラニエンブルクにある化学工場に化学者として勤務するようになりました。

ルンゲは染料の研究で、コールタールを原料としたアニリン染料の合成に成功しました。一般に合成染料の発明者として知られるウィリアム・ヘンリー・パーキンよりも10年早く、これが事業化されていれば歴史が変わっていたのですが、ルンゲが提案した合成染料事業は却下されてしまいました。当時、その地域で使われていた石炭はイギリスからの輸入品で、イギリス産の石炭はタール含量が少ないため採算性に問題があったのです(一口に石炭といっても、その性質は産地によって異なるのです)。

名状しがたきもの

ルンゲは合成染料だけでなく、植物由来色素による染色にも関心をもっていました。最初は、天然の色素を沈殿させようと、植物から抽出した溶液に鉛塩を加えてみましたが、元々色の濃い溶液の中で沈殿を観察するのは困難でした。そこで、もっと観察しやすい方法はないかと工夫してたどり着いたのが、ろ紙のストリップでした。離れた2点に植物成分の溶液と塩の溶液をたらすと、溶液は周囲に浸透してゆき、2種類の溶液が出会ったところで反応が生じます。また、ある溶液をたらした上に、さらに別の溶液をたらすと、大変美しい模様が得られることにも気付きました。

こうしてさまざまな溶液をたらしては、ろ紙上での挙動を観察し、その結果をまとめて1850年に繊維業界関係者向けの化学の本として出版しました。その中で、この模様は毛細管現象で溶液がろ紙に浸透してゆく間に溶液の性質に応じて分離されたものだろう、と実に化学者らしい推測をしています。

やっている内容としてはペーパークロマトグラフィーですので、もう少し原理・原則をしっかり調べていれば、ルンゲがクロマトグラフィーの発明者ということになっていたかもしれないのですが、ここでルンゲの興味があらぬ方へ発展していってしまいました。

ルンゲは現象ではなく模様の方に心を奪われてしまったのです。1855年に出版した本でも同じ現象をあつかっているものの、"自己生成する絵画"というアートの技法を繊維業界関係者に啓蒙する本にしてしまいました。どうしてそうなってしまったのかは定かではありませんが、若かりし頃に出会ったゲーテ大先生にすっかりかぶれてしまい、文学青年ならぬ文学中年として美の世界に目覚めてしまったのではないか、と筆者は勝手に想像しています。また、ゲーテも色彩に関する研究を行って「色彩論」という本を出していますので、ルンゲはそれを読んで影響を受けていたのかもしれません。

筆者の感覚で正直に言わせてもらえば、ルンゲの本の模様は、確かにきれいな色の面白いものではあるのですが、何とも形容しがたいもので、あまり一般受けしそうにない気がします。

なお、ルンゲ以外にも、ツヴェットより早いものや、ツヴェットとほぼ同時期のものなど、いくつかの独立した研究がありましたが、その内容や、後の実験の手本にされたことから、今のところクロマトグラフィーの創始者はツヴェットということで揺るがないようです。

さて、ルンゲが半歩手前で明後日の方向に飛んでいってしまったペーパークロマトグラフィーはというと、その完成にそれから100年近く待つことになりました。

架空の紙

書類(ペーパー)上にしか存在しない会社のことを指すペーパーカンパニーという和製英語がありますが、では文献(ペーパー)上にしか存在しない紙(ペーパー)は、やはりペーパーペーパーでしょうか。そんなペーパーペーパーが、ペーパークロマトグラフィーに関わる大変有名な論文に掲載されていました。

時は流れて1930年代、舞台は北海を渡ってイギリスに移ります。ケンブリッジ大学で生化学を学んでいたリチャード・ローレンス・ミリントン・シングは、卒業後も生化学の研究を続けるために研究生として大学に残りました。その時のテーマが糖タンパク質の化学だったのですが、糖タンパク質を研究するには炭水化物とタンパク質に関する化学的な知識が不十分なことに気付き、大学内の別の研究室に技術を勉強しに行きました。その修行の中で液-液抽出(2種類の溶媒を混合して、それぞれの溶媒に対する溶解度の差を利用して目的物質を精製する方法)を学んだことが後で役に立ったようです。

1937年、シングが所属するラボに、オーストラリア人のヘドリー・マーストンが客員研究員としてやってきました。マーストンは自分の研究を行う傍ら、ちょうどその年に設立されたばかりの国際羊毛事務局に対して科学面でのアドバイスをしており、羊毛の利用促進だけでなく、羊毛の性質を調べるための基礎研究もするべきだと提案していました。そのおかげで羊毛のアミノ酸組成を調べることになり、その担当者としてマーストンはシングを推薦しました。

ちょうどその頃、同じくケンブリッジ大学のアーチャー・ジョン・ポーター・マーチンは、生体分子の分離・分析技術の改良を試みていました。その当時の研究室では向流抽出がよく使われていました。工場のような大きなスケールであればコスト面でメリットがあり、産業分野でよく使われる手法でした。しかし、研究室のスケールでは経済的なメリットは特になく、生化学の実験ではあまり使い勝手のよいものではありませんでした。シングは研究の手始めとして、マーチンとともにアミノ酸分析法の改良に取り組むことにしました。

幸い、シングたちが研究をはじめた時点で、アミノ酸組成についての分析の事例はあり、彼らはブタノール/水系でアミノ酸を分散させた例に目をつけました。溶媒を何らかの担体で保持させたら、うまく分離できるのではないか、そうした仮説のもとに組み上げたのが、吸着ではなく2相の間の分配を利用したクロマトグラフィーでした。

担体にはシリカゲルを使用し、分解した羊毛のアミノ酸組成の分析を試みました。その結果、先行する研究よりは良好な分離能を示し、インジケーターを利用すれば無色の酸でも視覚的に検出できるという利点もありました。しかし、アミノ酸がシリカゲルに吸着する、動きの遅いアミノ酸は分離できない、市販のシリカ(彼らが購入していたのは、シリカゲルではなくてシリカのようです)はいろいろ種類がありすぎる上にシリカの種類によって結果が異なり再現性がよくない、といった欠点もあり、タンパク質研究のルーチンワークには向いていませんでした。また、シリカの準備は、塩酸でボイル→水で洗う→温めた97%アルコールで洗浄→110℃で乾燥、と手間がかかるのも困ったところでした。

その後、シングたちがシリカゲルの代わりになる担体として選んだのは、ごくありふれたろ紙でした。シリカゲルよりもアミノ酸の吸着を抑えられる上に、分離能も(その当時の基準では)申し分なくすべてのアミノ酸を分離することができました。一次元だけでなく二次元で展開できるところもペーパークロマトグラフィーの利点でした。

シングたちが開発した分配クロマトグラフィー(特にペーパークロマトグラフィー)は簡単かつ十分な性能で、生化学研究の発展に大きく寄与しました。例えば、タンパク質のアミノ酸配列決定の最初の例となったサンガーによるインスリンの研究でも、ペーパークロマトグラフィーが活躍しました。この功績によりシングとマーチンは1952年にノーベル化学賞を受賞しました。(サンガーのインスリンの研究も、1958年にノーベル化学賞を受賞しました。)

no. 1?

シングたちの分配クロマトグラフィーの実験でも、サンガーのインスリンの研究でも、ペーパークロマトグラフィーの担体には"Whatman™ no. 1"なるろ紙を使用したと書かれています。しかし、"Whatman™ no. 1"というろ紙は存在しないようなのです。ワットマンではろ紙を、厚さや性質で分類して等級(Grade)に分類しています。論文に出てくるWhatman™ no. 1は、ろ紙の中でももっとも一般的な"Grade 1"のことで、最初の"誰か"が間違えてWhatman™ "no." 1と記載してしまい、それを参照した後世の文献もすべてその間違いを引き継いでしまったのではないかと思われます。

参考文献

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  • Martin A. J. P., The development of partition chromatography, Nobel Lecture
  • Synge R. L. M., Applications of partition chromatography, Nobel Lecture

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