Dr. 近藤のコラム 2D-DIGEの熱い心
「生涯道場編」 ~戦うプロテオーム研究~
筆者は二次元電気泳動法を誰かに習ったことはない。今回は、医学部出身で実験経験のなかった者がどうやって二次元電気泳動法そして2D-DIGE法をマスターしたのか、ということについて書く。
道場:入門前後、1992年
筆者が二次元電気泳動法を始めたのは大学院に入ったとき(1992年)からである。医学部を卒業した後は臨床医になるのが普通であることは今も昔も変わらない。
しかし、なぜか自分の場合は基礎研究の分野に魅かれるものを感じていた。学生時代は病理学が気に入り、卒業したら病理医になろうと決めて病理学教室に入り浸っていた時期もあった。しかし、「毎日顕微鏡を見るのはつまらん、やめとけ」、と病理の大学院生だった先輩から卒業間近にきっぱり言われ、素直な学生だった自分は研究オンリーの道を選んだ。筆者にそのようにアドバイスしてくれた先輩は今ではある病理学教室の助教授として精力的に活躍しておられるし、自分も国立がんセンターでは病理医の方々と一緒に仕事をしている。あのとき病理医になる道を選択したらどうなっていたか、と考えたりすることもないことはない。
大学院生として入った研究室(難波正義教授)は主に培養細胞を扱うラボで、ヒト細胞の老化や不死化の機構を研究したり、機能的な培養細胞を作成したりすることを研究テーマとしていた。厳しい雰囲気のラボで、毎朝8時半から教授もサイクルに入るジャーナルクラブがあり、夜11時を過ぎないと誰も帰らない、週末も休日祭日も当然のように普通に働き正月も二日から出勤、という環境だった。
大学院のときの研究テーマは、「ヒト細胞の老化、不死化、癌化に関わるタンパク質を二次元電気泳動法を使って発見し、それらのメカニズムを解明する」という壮大なものだった。3月に医師の国家試験が終わってラボに行ってみると、筆者のためにすでにMultiphor IIが購入してあり、あとは試薬を買って実験するだけ、という条件が整えられていた(ありがとうございました)。ここから筆者の「道場人生」が始まった。
道場:電気泳動編、1992年~
医学部の授業では実験はほとんどしない。今はどうか知らないが、たとえば10人のグループで一本のピペットをみんなで扱うというレベルである。よくできる一部の優秀な学生が「ブレイン」として機能し、その多大勢の学生は後ろで見学、その後先輩のレポートを丸写しさせていただいて提出、というのが典型的なパターンだった。その他大勢の中に筆者がいたことは言うまでもない。実習時間は学食や体育館でよく遊んだものである。
そういう状態で学生時代を過ごし、卒業後いきなり二次元電気泳動を誰にも教わらずに独学で始めるというのは、今考えてもたいへんな話である。Multiphor IIについてきた説明書とオファーレルの論文を読みながら、モル数の計算の仕方を思い出しピペットの操作を教わりつつ、SDS、トリス、など試薬の意味をひとつひとつ本を読んで理解しカタログを見て注文するところから実験を始めた。当時の助手だった方は「本に書いてあることは教えない」という、今考えると「道場」的考えの持ち主だったのだが、よく勉強してみると実験に関して本に書いていないことは何もない。問題は膨大にあるプロトコールの中からどれを選ぶかということである。銀染色だけでも何通り試したことだろうか。実験がうまくいかない時には、二次元電気泳動が出ている論文全てに目を通し、片っ端から実際に試してみた。本や論文を読んで実験手法をマスターするというプロセスはおかげさまで十分身につき、それ以後、実験という実験はほぼすべて独学でマスターして今日まできている。
当時のファルマシア(現 Cytiva)は、二次元目の電気泳動には平版のSDS-PAGEゲルを使ってMultiphor IIで行うプロトコールを推奨していた。ファルマシアのラインアップに垂直型の電気泳動装置がなかったのだろうか。既製の平板ゲルの泳動距離はわずか10 cm*ほどで素人目にも頼りなかったので、泳動距離24 cmの平板ゲルを自作して使おうと考えた。
作り方自体はそれほど難しくはない。ガラス板の一方にPAGフィルムを貼り付けてゲル板を作成、アクリルアミドの溶液を注ぎ込んで重合したあとにガラス板の片側をはがす。すると、片面がフィルムに密着したSDS-PAGEのゲルができあがっている。ただ、ガラス板からゲルをはずして使う際に濃縮ゲルと分離ゲルの間にどうしてもわずかな隙間ができてしまい、そこで電気泳動がうまくいかないという問題があった。後に、この問題はある工夫で解決できたのだが、そもそも平版のゲルを使うメリットが何もないことに気づき、垂直方向に電気泳動するという方法に切り替わった。
今では垂直のSDS-PAGEをIPGゲルの二次元目に使うのはごく標準的な方法なのだが、当時は誰もそのことを言わなかったようである。製品として出たての頃はこういうこともあるのだろう。途中、バッファーストリップの自作に挑戦するなど(これはけっこうたいへん)、ポリアクリルアミドゲルについてはずいぶん詳しくなった。
そうこうしている途中に、ミリポア社がInvestigator IIという二次元電気泳動システムを出しているということを知った。Investigator IIは悪いシステムではなかったが、やはりイモビラインゲルが手軽で再現性が十分よいこと、二次元目のゲル作成に使う特殊なアクリルアミドが高額であること、スポットの形がシャープにならないこと、などから、結局は元のシステムに戻った。
二次元電気泳動法はロースループットだと言われるがやりようによっては十分ハイスループットである。日本エイドーの機械を改造して一台で8枚のゲルを一度に電気泳動できるようにした装置を4台並べ、一晩で32枚のゲルを使って二次元電気泳動をする、という実験をある時期していた。銀染色と電気泳動が重なる週の半ばはかなりたいへんであった。DIGEならレーザースキャン一発で画像が撮れることを考えると、技術は進歩したものだとつくづく思う。
当時の画像解析装置はおどろくほど高額だった。ある会社の透過式の光学スキャナーとUNIXのOS上で動く画像解析ソフトのセットが2000万円代後半だったと記憶している。自分の大学にはないその画像解析システムがどうしても必要なときは、となりの倉敷市にある川崎医大に行って使わせてもらったりしていた。ゲル画像を記録するためには普段は写真を撮影していた。もちろんデジカメではない。白黒写真を撮って自分で現像して印画紙に焼き付けてファイルする、ということである。これも今ならレーザースキャン一発でおしまいである。透過式のスキャナーはマッキントッシュ対応のものが臨床の医局にあったのだが、スキャン速度があまりに遅く、スキャンの待ち時間に喫茶店に行って帰ってみるとまだ終わっていない、という速度でとても使えなかった。カラーのモニターは個人の使用するコンピューターにはぜいたく、と言われていた時代の話である。
二次元電気泳動法がだいたいできるようになったのは2年目からである。この間、膨大な失敗ゲルを作成し続け、失敗に対する強い耐性ができていた。失敗している間はよく勉強するものである。泳動方法だけでなくサンプル調製法も本を読んでいろいろな方法を試し、実験群で発現差のあるタンパク質スポットを同定できるようになった。ここから次の「道場」が始まる。
道場:タンパク質同定編、1993年~
「銀染色で染まるくらいの量があればタンパク質同定はいけるだろう」というのが当時の教授の考えだった。しかし、もちろんその量ではエドマン分解でのアミノ酸配列決定はできない。今の質量分析を使っても難しいこともある。この難しさが正確に理解されていたら、自分の研究テーマはそもそもありえなかったかもしれない。
当時、エドマン分解でアミノ酸配列を決定する場合、受託解析に出せば100 pmolを要求されていた。しかしそれはさすがに多過ぎで、研究者ががんばって数pmolというのが標準的な量だった。この「数pmol」を集めるために、たくさんのサンプルからタンパク質を回収し、分画し濃縮し、電気泳動してIn-gel digestionして逆そうカラムで分画をとって、というのを延々とやるわけである。微量精製と言っても質量分析を使う今の時代とは感度の桁が違う。当時はケラチンのコンタミを心配する必要はなかった。それにしても精製法はいろいろ試した。In-gel digestion法にしても論文に載っているのは片っ端から試してみた。今では質量分析を使うとスポット一個からタンパク質同定ができ、一つのスポットに複数のタンパク質が含まれることが問題になるくらいだからいい時代になったものである。
スポットから回収したタンパク質でウサギを免疫し、運よく抗体がとれればそれで発現ライブラリーをスクリーニングする、という方法を試そうとしたことがある。半年くらいかかってCO2インキュベータ何杯分もの培養細胞を集めて精製したタンパク質をウサギに免疫した。あろうことかそのウサギはその翌日に死亡してしまった。あまりのショックに不眠症が治ってしまい、しばらくはぐっすりよく眠れたのを覚えている。
よく発現している組織からタンパク質を抽出すれば濃縮のステップを減らせると考えてあらゆる臓器、細胞株からタンパク質を抽出し、ひたすら二次元電気泳動のパターンを見比べたりしたのもこの時期である。全身の臓器の二次元電気泳動パターンを調べた。見比べると言っても白黒写真を大きく焼いて、赤ペンで印をつけながらの解析である。当時のゲルの写真を見ると、今見てもなかなかよく分離できているしサンプル間での再現性もよい。ただ、デジタル画像に慣れた今の目で見ると、正常細胞と不死化細胞の間にはあまりにも差がありすぎるようである。
やがて「プロテオーム」という言葉が登場し、というのは今になって思い出すことで、当時は耳にしていたような気もするが意識することはなかった。ファルマシア社製の液体クロマトグラフィーであるSMART システムに質量分析をつないだ「夢のマシーン」が紹介されていたことを記憶している。シエナミーティングの案内を見て、いつか行ってみたいと思っていた(2006年に実現)。このころ日本の書店では「プロテオーム」だとか「二次元電気泳動」などというタイトルのついた本はついぞ見かけなかった。あれば必ず買っていたのだが。今で言うところの「プロテオーム解析」はその当時はすっかり下火で、日本癌学会、日本分子生物学会、日本電気泳動学会などどこでも、二次元電気泳動法を使って演題を出しているのは自分だけだったりした。ポスター発表ではゲルの写真が珍しがられたのか、「それ何ですか?」という類の質問をよく受けていた。当時質問してくれた方は今どうしているだろうか。
二次元電気泳動で発現差のあるタンパク質を見つけて機能を調べる、という実験はそのまま進行し、いくつかおもしろい発見もあった。どんなにありふれたタンパク質でも疾患との関連で調べてみると意外な側面が発見される、ということがわかった。その意味で、ありふれたタンパク質しか観察されない実験系であっても研究のアイデアや実験デザインの工夫でいくらでも発見はありうる。今のプロテオーム解析について言えば、網羅的に見ないといけない研究ばかりではないのではないかと思う。網羅的に調べて膨大なタンパク質のリストを作成し、その後何もしていない、という例も多く見られるからである。実験をすればタンパク質のリストができるのは初めからわかっているのだから、その後何をするのか具体的なアイデアが浮かぶまでは実験をしない方がいいのではないか、と最近は思っている。
道場:ミシガン大学留学編、1998年~2001年 につづく