2021.04.01

Robert Lefkowitz教授へのインタビュー

By Cytiva

Discovery Makerであるボブ・レフコウィッツを紹介します。ノーベル賞を受賞した科学者である彼の研究は、数え切れないほどの命を救った薬の開発につながりました。彼のモットーはどんなものでしょうか?「君が失敗していないとすれば、質問が簡単すぎるということだ」。


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もっと成功したいですか?それならばもっと難しい質問をしましょう。

Robert Lefkowitz教授へのインタビュー

ボブは落ち込んでいました。成功者であった彼は、失敗には慣れていませんでした。しかしその時は失敗でした。それもひどく失敗していたのです。1968年。彼はどんなに頑張っても研究を進めることができませんでした。年上の科学者からの励ましの言葉の中で、彼はボブにこう尋ねました。「平均的な科学者が行った実験のうち、成功したのは何パーセントだと思う?」。 ボブは肩をすくめました。「大体1パーセントだよ」と答えが返ってきました。「では、最高レベルとして、ノーベル賞受賞者の場合はどうだと思う?」 もう一度肩をすくめました。「2パーセントさ」。

ショックを乗り越えたボブは、この失敗の教訓をうまく活かして、現在もっとも尊敬される科学者の一人となりました。この50年間、ボブによる受容体(ホルモンを受け取る細胞の一部分)の同定と理解に関する研究は、数多くの薬を生み出し、数え切れないほどの命を救ってきました。Gタンパク質共役型受容体の研究で、彼とブライアン・コビルカ(Brian Kobilka)は2012年のノーベル化学賞を受賞しました。

現在、デューク大学の医学および生化学の教授であり、米国のハワード・ヒューズ医学研究所の研究者でもあるボブは、医師であると同時に科学者でもあります。トップの成績で医学部を卒業したボブは、臨床医学の分野で卓越したキャリアを重ねるであろうと思われていました。しかし、ベトナム戦争が転機となりました。米国公衆衛生局に配属されたボブは、それまでは敬遠していた研究の分野に触れることになりました。このようにして、彼の人生における2番目に大きなプロとしての情熱が生まれたのです。

優れた語り手であるボブとの会話には、素晴らしい逸話が数多く含まれていました。失敗を受け入れることが科学者のトレーニングにとって極めて重要であること、「イエローベレー」としての奉仕が彼にとってどのような意味があったか、そして発見におけるユーモアの役割などについて語ってくれました。

あなたの成し遂げた大きなブレークスルーは基礎科学分野のものですが、結果的には臨床医学の世界に大きな影響を与えています。これはどのようにして起こったのでしょうか?

1960年代後半から70年代前半にかけて、アドレナリンやモルヒネなどの薬物には特異的な働きがあり、特定の組織にしか作用しないことがわかりました。細胞上には部位があって、鍵が鍵穴に収まるように、薬物がその部位に収まるはずだと考える人が大勢いました。この部位は現在、受容体と呼ばれるものです。しかしこのことを示す証拠はなく、非常に物議を醸す考えでした。私は、そういった部位が存在しなければならないと確信していました。私はそうした受容体を特定し、どのように機能するかを解明することに着手しました。私の50年間のキャリアは、こうした目的に捧げられてきたのです。

1986年、私のラボで、β-アドレナリン受容体と呼ばれる特定の受容体の遺伝子およびcDNAをクローニングすることに成功しました。私たちは、受容体タンパク質を構成するアミノ酸鎖が、細胞の原形質膜を7回貫通することを見いだしました。

当時知られていたタンパク質のうち、この珍しい配列を持つものは1種類だけでした。それはロドプシンと呼ばれるタンパク質で、網膜だけに存在します。それは光子の「受容体」であって、ものを見ることを可能にします。

アドレナリン受容体と光受容体のように、異なる2種類の分子が非常に似ていることを理解した私たちは、あらゆる種類のものを認識できる、巨大な受容体ファミリーが存在するかもしれないことに気づきました。

これは真実であることが判明しました。私のラボですぐにこの種の受容体を特定し、1ダースほどクローニングしました。私たちの知見に基づいて行われた他の研究者の研究によって、私たちの味覚や嗅覚をつかさどる受容体、そしてあらゆる種類のホルモン受容体が、1986年に私たちが発見したのと同じ受容体ファミリーのメンバーであることがわかりました。これらの受容体は現在、一般に「Gタンパク質共役型受容体」と呼ばれています。

「なるほど、とても興味深いことですが、それは私の日常生活と何の関係があるのですか?」と言う人がいるかもしれません。 その答えは、「これらの受容体は薬の標的としやすいのです」。今日、米国での使用が承認されているすべての薬のおよそ3分の1、約700種類の薬は、この受容体ファミリーを標的としています。なので、研究はこれらの分子がどのように機能するかを解明することを目的としたものでしたが、最終的には、医学の実践に大きな影響を与えたのです。

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科学的発見にはいつも挫折と疑念が伴います。科学者はどのようにして、自分の理論や自分自身への信念を維持しているのでしょうか?

大きな発見をするには大きな仮説を立てる必要がありますが、大きな仮説というものはしばしば物議を醸します。それを持続させるには、ある種の強迫的な人格が必要です。それは良いことでも悪いことでもあります。なぜなら、私が正しいのと同じぐらい頻繁に、私は間違うこともあるからです。私はいつも、「何かを信じるなら、それが正しいか間違っているかわかるまで、同じように感じるものです」と言っています。

私がもっとも重要な研究をしていたのはとても若いときでした。それはよくあることです。実際、それはルールと言ってもいいでしょう。生物学よりもそれが顕著な分野もあります。数学や物理学では、20代後半か30代前半までにピークを迎えてしまいます。

自分がしてきたことや成功の確率を振り返ってみると、現在の私は、そんなことに取り組む大胆さは持っていないと思います。しかし当時は、自分が成功しないだろうとは思いもしませんでした。私の頭にあったのは、「いつうまくいくだろう?」ということだけでした。

あなたは幼い頃から医師になりたいと思っていたそうですね。医療の道を歩むようになったきっかけは何でしたか?

振り返ってみると、たしか8歳か9歳の頃に、医学が天職であるとの感覚を得ました。私が覚えているのは、自分のかかりつけ医を崇拝していたことだけです。彼はジョセフ・ファイブッシュ(Joseph Feibush)博士といい、ブロンクスで家庭医として開業していました。彼は他の誰もが知らないことを何でも知っていました。彼は他の人には読めない処方箋を書くことができ、そのおかげで人々は気分がよくなったのです。私はすでに科学に興味を持っていました。小さなおもちゃの顕微鏡と化学セットも持っていました。それで、こう言ったのです。「これよりもっと良いものって何だろう?」。

それは、子どもにとって非常に明確なビジョンでした。自分が何をすべきが悩む必要がなかったからです。私は直線コースにのりました。私が受けた教育全体の中で、もっとも幸せだったのは医学部時代でした。医師になるという夢がついに実現しつつあったからです。その時点では、科学者になることにはまったく興味がありませんでした。

そして歴史が介入しました。ベトナム戦争はあなたのキャリアにどのような影響を与えましたか?

私は1966年に医学部を卒業しました。戦争のピーク時です。18歳以上の男性には抽選式の徴兵がありました。徴兵されるかもしれませんし、されないかもしれません。しかし医師に抽選はありませんでした。医師は全員、招集されたのです。

私たちの多くは戦争反対のデモを行いましたが、それは不道徳だと感じられました。ベトナムでの従軍を避ける数少ない合法的な方法の1つは、士官として米国公衆衛生局に配属されることでした。しかしご想像のとおり、ここに配属されるための競争は非常に激しいものでした。

私は素晴らしい医学部に通い、よい推薦状も得ていましたので、国立衛生研究所の公衆衛生局に配属されました。そこでの私たちはハイブリッドのような存在でした。自分の時間の20%は患者さんの世話に費やされましたが、残り80%はラボでの活動に割り当てられました。そこで私は2つ目の天職に出会ったのです。

最初の1年半はまったくの大惨事でした。何をやってもうまくいかず、それは私にとっては新しい経験でした。私はそれまでの人生でやってみて失敗したことはありませんでした。特に、長い期間失敗したことはなかったのです。そのとき、私たちが科学において実行することの大半は「失敗」だということがわかりました。しかしこれは、若い科学者にとって学ぶのがもっとも難しい教訓の1つです。

やがて私はうまく行き始め、研究がいかにエキサイティングであるかを味わい始めました。それから2年が経ち、内科と心臓病学の研修を積むためにボストンへ移りました。

私のひらめきは、フルタイムの臨床医学に戻ってから約6カ月後に起こりました。

何かが足りないことに気づいたのです。私には、研究上の問題と格闘するという興奮と知的な挑戦が足りませんでした。そこで、研修を終えた後はデューク大学に移り、ラボでの研究を始めました。そして、残りは歴史のとおりです。

あなたがいた頃の国立衛生研究所は、注目すべき科学者を多数輩出しました。その時期の何がそのように特別だったのでしょうか?

国立衛生研究所で、私たちはいわゆる「イエローベレー」でした。黄色というのは臆病を意味するはずでした。私たちはベトナムに行かなかったからです。しかしそれは、非常に名誉あるバッジとなりました。

そのプログラムは、優秀なメンター、非常に優れた上級科学者、そしてアメリカの医療機関の最年少メンバーの中でもっとも優秀で聡明な者たちを集めていた、注目に値する時期でした。基本的に、すべての医学部からトップの学生を集めていました。

私のクラスには未来のノーベル賞受賞者が4人いました。私の他、LDL受容体を発見したマイク・ブラウン(Mike Brown)とジョー・ゴールドスタイン(Joe Goldstein)、そしてがんを引き起こす「がん遺伝子」を発見したハロルド・ヴァーマス(Harold Varmus)です。クラスには、あなたもその名を聞いたことがあるであろう人がもう1人いました。トニー・ファウチ(Tony Fauci、米国国立アレルギー・感染症研究所所長)です。

あなたのキャリアは興味深い二重性を基盤としています。あなたの職業生活の2つの部分である医師と科学者は、どのような関係にありますか?

この2つの側面は、私が持つそれぞれのニーズを満たしています。私にとって、医学の実践とは、手に入れうる最高の天職に従事することです。苦しんでいる人に安らぎを与えることです。これはとても特別な関係性です。

しかし、医療では満たされない深い憧れもありました。臨床医学の範囲内では、創造的な出口を見つけることができませんでした。一般に、医療とは特定のケア基準に従うことです。糖尿病の患者さんがいれば、こういう医療を実践します。心不全の患者さんがいれば、ああいう医療を実践します。一般的な規範に従っている限り、医療過誤とされることはありません。

研究においては、その正反対です。他の誰かがやったように何かをすれば、それは他の人のデータを確認しただけです。それでは何も始まりません。自分が最初に何かをしなければならないのです。

このように、私が医療の実践から得たものと研究から得たものとはかなり違っていました。1つは究極の人間的活動であり、もう1つは究極の知的活動、あるいは創造的活動です。

あなたはデータを独創的に解釈することの重要性を強く信じていますね。医療と研究の両方において、ストーリーテリングが果たす役割について教えていただけますか?

医学部の3年生の時、まさに自分を形作るような経験をしました。指導医との回診の初日、仲間の学生の1人が症例を提示し、私たちはそれについて話し合いました。話し合いが終わったとき、指導医は私に向き直って、「レフコウィッツ君、この症例の事実をすべて聞いただろう。この症例をもう一度、別のストーリーで提示してみてもらいたい」といいました。

私は彼を見つめました。「どのようなことを仰っているのでしょうか?ストーリーはストーリーです。すでにお聞きのとおりです」。 しかし彼は言いました。「別のストーリーが欲しいんだ。ただし、事実を変えることはできない。でも別のストーリーが欲しいんだよ」。

私は口がきけませんでした。それで、指導医は別の学生に問い直しました。返事はありませんでした。すると、彼は私たちに示したのです。彼はその症例の事実を取りあげ、それらを違う順序で、強調点も別のところにおいて提示しました。同じ患者さん、同じ事実であっても、別のストーリーでした。実際、別の診断が導かれました。

データはストーリーではありません。単なるデータです。ストーリーを生み出すためにデータを特定の順序で並べるには、創造性と分析スキルが必要です。

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重要なブレークスルーには多くのハードワークが伴うものですが、科学研究におけるセレンディピティ(思いがけない発見)の役割についてはどのようにお考えですか?

私にとってのセレンディピティとは、意識による制御を受けない方法で事象をまとめ、探究すべきまったく新しい道を拓くことです。

ペニシリンを発見したフレミングの昔話を考えてみましょう。彼は寒天培地の特定の部分で細菌が増殖していないことを発見しました。一方で、これは困ったことでした。その一方で、この現象は、汚染菌として偶然一緒にシャーレで増殖していたある種のカビが、細菌を殺す抗生物質を分泌していたためであることが判明しました。彼はその状況を見て、こう言ったかもしれません。「なんて腹立たしいんだろう。細菌が生えていないじゃないか」と。そう言ってシャーレを投げ捨て、自分の仕事を続けたかもしれなかったのです。

私はキャリアの中で幸運なことに、繰り返し何度もセレンディピティに恵まれてきました。私はいつも気づき(アウェアネス)と覚醒の状態にあって、偶然のできごとを見守っています。私が学生たちに教えようとしていることの1つは、偶然の発見という贈り物に対して自分の心を開いておく方法です。

それが単に時間の問題であって、やがては来るものだと理解するために、準備をしておいた方がよいでしょう。重要な科学的発見の年代記をさかのぼってみれば、おそらくは、至るところでセレンディピティ、すなわち思わぬ発見が見つかることでしょう。

あなたはユーモアがあることで有名です。あなたの研究においてユーモアはどのような役割を果たしていますか?

ユーモアと発見の間には興味深い関係があります。ユーモアの鍵は、ある種の皮肉と、通常は一緒にされないようなものを並列に置くことにあります。物事を違う角度で見るのです。もちろん、これらは本質的に、発見の鍵となる要素でもあります。

「ああ、そのジョークがわかったよ」という言い方がありますね。 ジョークがわかった瞬間に、ちょっとした発見をしているのです。それは冗談を言った人がすでに発見したことを今度はあなたが手に入れた、ということなのです。研修生たちと一緒にユーモアを使えば使うほど、創造性の泉がますます湧いてくることがわかります。

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今度は真面目な話ですが、あなたの研究に基づく薬物療法から、これほど多くの人々が恩恵を受けていることについて、どのように感じていますか?

自分のキャリアを振り返ってみると、もし私が常勤の開業医であったならば、その命に影響したかもしれない患者さんの数は、おそらく数千人程度だろうと思います。しかし、現在使用されているすべての医薬品のうち3分の1は、私が行ってきた研究がベースとなっています。それらは、何らかの形で、数百万、数千万、数億人もの患者さんたちに届いているのです。ですから、別の意味での喜びがあります。

最後に、あなたは以前「無用な知識の有用性」について語っておられました。答えを見つけることへの執着が、人間の進歩にとってそれほど需要なのはどうしてでしょうか?

新発見の最終的な有用性がどのようなものになるのかを事前に知ることは誰にもできません。何世紀にもわたって医学を変化させてきた数々の発見のほとんどは、病気を治すつもりではなかった人々によって為された根本的な発見でした。私が研究してきた受容体をご覧ください。私は特に薬を開発したり病気を治したりしようとしていたわけではありません。私はただ、知りたかったのです。「なぜ?」は、すべての科学の基本なのです。

77歳にして、ボブはまだ「なぜ?」と尋ねています。 彼の指導に励まされて、若い科学者たちは失敗を受け入れたり、金鉱脈につながるかもしれない予期せぬ結果を見抜いたりすることを学んでいます。これは彼の最大の遺産かもしれません。知識(ボブに言わせれば「誰もが学べるもの」)の継承ではなく、偶然の贈り物を見つけられる能力の継承です。ですから、次の大発見がどこからやってくるのかを知りたければ、ロバート・J・レフコウィッツという研究者の笑いに満ちた研究室から現れる科学者たちに注目してください。