バイオダイレクトメール vol.64 細胞夜話
<第26回:23年目のちゃぶ台返し - 培養細胞のコンタミネーション>
1951年、世界で最初のヒト由来培養細胞HeLaを樹立したジョージ・ゲイは、世界各地の研究室にHeLaを配布しました。もちろん、ゲイ自身はヒトの細胞を研究している研究者の役に立てばという気持ちで配っていたのだと想像されますが、後にこれが大きな問題を起こすことになりました。
HeLaの樹立を境に、世界各地の研究室でヒト由来の細胞の培養がうまくいくようになり、新しい細胞株が次々に報告されました。それと並行して、そのような新しい細胞株を用いて、さまざまな性質を調べようとする研究も、盛んに行われるようになったのです。
この時期、「培養を続けるとやがて当初の形質を持った細胞が消えてゆき、その代わりに新しいタイプの細胞が現れる」といった現象が見られたようです。その「新しいタイプの細胞」を用いて研究が行われるわけですが、実はこんな細胞をラットに注射して「羊膜のプライマリーセルには腫瘍原性がなかったが長期培養した細胞では腫瘍が形成された」などと報告して喜んでいる場合ではありませんでした。
ケチのつき始め
上記のような新しく樹立された細胞がどうも胡散臭いと感じて研究を行い、その結果を最初に報告したのはワシントン大学のスタンリー・ガートラーでした。
その当時も、研究者は実験に使う細胞のチェックをしてはいました。しかし、その方法は細胞の核型を調べるだけでしたので、ヒトとイヌの細胞を間違えるのを防ぐことはできても、同じ生物種由来の細胞が混入しているかどうかを検査することはできませんでした。そこで、ガートラーは種内でのコンタミネーションを検出できる方法として、アイソザイム分析を採用しました。
ATCCから18種の細胞株を入手してグルコース-6-リン酸デヒドロゲナーゼの多型を調べてみたところ、ヨーロッパ人から得られたものであるはずの細胞株の全てで、ヨーロッパ人にはほとんど存在せず、逆にアフリカ系アメリカ人には大変多く見られる多型が検出されました。この多型は黒人女性の子宮頚癌由来であるHeLaにも見られることから、ガートラーはATCCから入手した18種の細胞株は、培養の際に混入したHeLaに置き換わってしまっているのではないかと考えました。ガートラーは、その結果を1967年に報告しましたが、示すことのできた証拠がアイソザイム分析の結果だけだったからか、彼の報告は大きな議論になることもなく埋もれてゆきました。
HeLa樹立から23年目の大騒ぎ
HeLaのコンタミネーション問題を大きな議論に発展させたのは、カリフォルニア大学の細胞培養研究所の副部長だったウォルター・ネルソン-リースでした。ネルソン-リースは、ギムザ染色したHeLaの染色体を調べ、正常な細胞には見られない約40の特徴的な染色パターンを発見しました。ネルソン-リースは、ガートラーが調べた18種の細胞株について、アイソザイム分析の追試をするのと同時に、染色パターンを用いた染色体マーカーも検査しました。その結果として、18種の細胞株全てが培養中に混入したHeLaらしいことを1974年に報告したところ、今度は大きな反響を呼び起こしました。ネルソン-リースのもとに、国内だけではなく国外からも多数の細胞株が届けられ、その数は100を越えました。ネルソン-リースは精力的に検査を実施し、40以上の細胞株がHeLaに置き換わっていることを、1976年に発表しました。
多くの研究者が、新規の細胞株を研究しているつもりで、実はHeLaを研究していたことが明らかになってしまい、細胞研究の現場は大きく混乱することになりました。長年の研究に使ってきた材料が見当違いであり、HeLaの性質の調査としてはともかく、本来の研究の趣旨からすれば予算と労力の全くの無駄遣いである、などということになっては大問題です。当然、他の細胞研究者からのネルソン-リースに対する風当たりは強く、ネルソン-リースの研究に対する疑いの声すらあがりました。ネルソン-リースはそれでも熱心に研究を続け、さらに多くのHeLaのコンタミネーションを発見しただけではなく、他のヒト由来の細胞に置き換わってしまっている例や、ヒト以外の生物種の細胞でも同様の問題が起きていることも明らかにしました。
このように細胞研究の信頼性向上のために尽力したネルソン-リースですが、彼の研究に対するNIHの補助金が打ち切られてしまい、1981年に引退することになりました。
問題は終わらず
ネルソン-リースの活躍は終わりましたが、研究に使われている細胞の身元をはっきりさせようという研究は、他の研究者によって続けられ、近年でもいくつもの細胞株が、本来の細胞から他の細胞に置き換わってしまっていることが報告されています。PCRも塩基配列解析もできなかったため、ネルソン-リースの研究にはどうしても疑問を呈する余地がありましたが、分子生物学的手法の発達により、今日では議論の余地なくはっきりとコンタミネーションが示されるようになっています。また、ネルソン-リースの研究についても、分子生物学的手法を用いた追試により、彼の結論が正しかったことが確かめられています。
なお、ネルソン-リースはその功績が認められ、Society for In Vitro Biologyのもっとも名誉ある賞であるLifetime Achievement Awardを2005年に授与されています。
参考文献
- Fogh J. and Hok K. A., Tumor Production in X-Ray- and Cortisone-treated Rats Given Injections of Human Cells in Continuous Cultivation. Cancer Research, vol. 18, 692-697 (1958)
- Hayflick L., The establishment of a line (WISH) of human amnion cells in continuous cultivation. Experimental Cell Research, vol. 23(1), 14-20 (1961)
- Nelson-Rees W. A., Flandermeyer R. P. and Hawthorne P. K., Banded marker chromosomes as indicators of intraspecies cellular contamination. Science, vol. 184, 1093-1096 (1974)
- Nelson-Rees W. A. and Flandermeyer R. P., HeLa Cultures Defined. Science, vol. 191, 96-98 (1976)
- Nelson-Rees W. A., Daniels D. W. and Flandermeyer R. P., Cross-contamination of cells in culture. Science, vol. 212, 446-452 (1981)
- MacLeod R. A. F., Dirks W. G., Matsuo Y., Kaufmann M., Milch H. and Drexler H. G., Widespread intraspecies cross-contamination of human tumor cell lines arising at sourc. International Journal of Cancer, vol. 83(4), 555-563 (1999)
- O'Brien S. J., Cell culture forensics. PNAS, vol. 98, no. 14, 7656-7658 (2001)
- New York Times
- Society for In Vitro Biology
細胞夜話作者の余談
- 確かにネルソン-リースへの風当たりは強かったようですが、中には大変真摯な研究者もおり、HeLaのコンタミネーションが判明した細胞を過去に配布した先にその結果を連絡した例もあるようです。また、ネルソン-リースの論文のコンタミネーションが確認された細胞のリストにある細胞の提供者の欄には、The originator、つまり細胞株を樹立した本人からの提供であることを示すものもあり、積極的に協力した研究者もいたようです。
- 後に細胞増殖の停止に関するヘイフリック限界の発見者となるレナード・ヘイフリックもHeLaの罠には引っかかり、WISHなる細胞株を樹立したつもりになって、in vitro培養の初期に生じる細胞の変化の証拠を云々などと書いています。