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生化夜話 第13回:なお、この泳動槽は自動的に分解する - 日本最初の電気泳動装置1946年1月、戦争で焼け野原になった東京、その中で運よく戦災を免れた東京大学の医学部生化学教室に、海軍で軍医をしていた平井秀松が助手として加わりました。生化学の基礎訓練を終え、与えられたテーマであるウマ血清タンパク質の異種抗原性除去に取り組みましたが、その研究の中でタンパク質分画の観察に用いていた硫酸ナトリウム塩析法をもっと便利な方法に切り替えられないかと感じるようになりました。 そんなある日のこと、昼食の席で生化学教室の教授、児玉桂三が、「ティセリウスの電気泳動」なる方法について知っている者はいないかと尋ねました。平井は、ウマの破傷風抗血清の論文に、何やら見慣れぬデータが掲載されていたのを思い出し、その論文を教授に見せてみた。すると、これで間違いないということになり、教授は一言「すまんが作ってみてくれんか」と平井に新しい、そして彼のそれからの人生を大きく変えてしまうテーマを与えたのでした。 道着の帯がつなぐ縁ティセリウスの論文に掲載された装置の写真や光学系の略図から、幾何光学の知識がないとどうしようもないとわかり頭を抱えます。平井は医学部、光学については門外漢です。 旧制高校柔道部時代の平井の後輩、島尾和男が物理学科に所属していましたので、早速平井は島尾学生をつかまえて、助けを借りることにしました(島尾の後の述懐によると、「物理学科の光学の先生を紹介して組み立てを手伝えと命令」されたそうですが)。 後輩を通じて光学の小穴助教授の助けを借り、何とか1ヶ月ほどで光学系のめどを付けることができました。ティセリウスの論文に記載された光学系はよほど難解な代物だったらしく、光学の助教授をして「昨夜一晩うんうんいって考えてやっとわかったんだから平井君には無理でしょう」と言わせることになりました。 手作り接着剤、風呂桶屋の特注品、そして銀の盆光学系の次に控える問題は、泳動する溶液を入れるU字型のガラス管です。小穴研究室付属のガラスショップで研磨してもらった29個のパーツを、ガラス細工の得意な児玉に組み立ててもらいました。適した接着剤がなかったため、ゼラチンとクロム酸カリウムを混ぜ合わせたペーストで貼り合わせ、加熱して重合させたのですが、この手作りの接着剤には水で膨潤してしまうという弱点がありました。 ティセリウスの電気泳動装置は、熱対流を抑制するために低温で泳動することが必要です。つまり恒温槽の中で泳動を行うわけです。そのため、わざわざ教授に組み立ててもらったU字管は長くても3日目にはばらばらに崩壊してしまい、その度に接着し直すことになりました。 一方、恒温槽はというと、今日の実験室でよく見かける恒温水槽などあるはずもなく、ようやく営業を再開したばかりの風呂桶屋に特注で作ってもらいました。檜造りのなかなか立派なものだったそうです。 また、泳動装置の電極を作るための銀が必要でしたが、これも焼け野原の東京ではまず手に入るものではありません。結局、児玉家に保管されていた純銀製のお盆を提供してもらい、それをハサミで切って電極にしました。 その他、おもちゃの機関車の歯車やモーターを流用した連動装置、焼け跡から拾ってきたと思われる真空管でつくった電流の整流装置など、さまざまな手作りの品で組み上げた日本で最初の電気泳動装置が完成したのは、1947年も暮れようとするころでした。 翌1948年4月、東京大学医学部で開催された第20回日本生化学会で、装置を公開することになりましたが、そういう手作りの装置ですので、移動させるわけにもゆかず、実験室に直接足を運んでみてもらいました。その観客の中にたまたま日立製作所の技術者がいたことが、その後の電気泳動の普及に弾みをつけるきっかけとなりました。 小石川からウプサラへ平井の手作り装置公開から1年も経たず、1949年1月には日立製作所が日本で最初の市販電気泳動装置となる「HT-A型チセリウス電気泳動装置」を完成させました。HT-A型は大変大きな機械でしたが、その翌年、1950年4月には、もっと小型の「HT-B型チセリウス電気泳動装置」が発売されました。これらの電気泳動装置の開発は、生化学教室の指導の下で行われたようですが、この時期の日立製作所との共同作業については、筆者が調査した限りでは、平井はあまり語っていないようで、よくわかりませんでした(手作り電気泳動装置の逸話に比べれば、あまり面白くなく、わざわざ紙面を大きく割くことはしなかったのではないでしょうか)。 日立製作所のチセリウス電気泳動装置は急速に広まりました。1950年はじめの時点で数十台、1951年6月の集計では91ヶ所に設置されていたそうです。そこで電気泳動装置を使う研究者の情報交換の場を用意することにしました。1950年に、児玉を中心として、現在の日本電気泳動学会の前身、電気泳動研究会が発足しました。 研究会のスタートにあたっては場所の提供、事務、財政など、さまざまな面で日立製作所の支援があり、研究会設立準備委員会の最初の会合は、1950年2月に日立製作所が所有する東京小石川の日立倶楽部で開催されました。 設立から15年後の1965年、電気泳動学会は電気泳動法の確立に多大な貢献をしたウプサラ大学のティセリウスを最初の名誉学会員に推薦し、平井はウプサラ大学のティセリウスを訪れて推薦状を手渡しました。ティセリウスはこれを快諾し、名誉会員第1号が誕生することになりますが、ちょうどその時、ティセリウスの息子で医学部で研究をしていたペル・ティセリウスが自分の電気泳動の結果を父親に見せに来ました。ペルの電気泳動はお世辞にも上手とは言えないものだったそうですが、だいぶ上達したとティセリウスが息子をおだてる様子を、平井は楽しそうに書き残しています。 その4年後の1969年、今度はティセリウスが、電気泳動学会の20周年記念総会に出席するために、はじめて日本を訪れました。日本各地を観光したり、平井の自宅を訪問したり、楽しく過ごしたようですが、この日本訪問が、ティセリウスと直接顔を合わせる最後の機会となってしまいました。2年後の1971年秋、ティセリウスは急に体調を崩し、不帰の客となってしまったのでした。 翌1972年、平井は渡欧の際にウプサラを訪れ、ティセリウスの墓参りをしました。その際に、平井は藤色の菊の花を供えましたが、これは1969年にティセリウスが平井の自宅を訪問した際に持参したのと同じ花だそうです。この時、大学院生だったヤン・クリスター・ヤンソン(現ウプサラ大学教授)によると、父親に対する長年の友情への感謝のしるしとしてティセリウスの息子ペルから贈られた遺品の腕時計を、平井はとても大切に身につけていたそうです。
2号機の行方北海道大学総合博物館の一室に、古い機械が展示されています。現存する中では、おそらく日本でもっとも古い電気泳動装置です。今日の実験室にある電気泳動装置を見慣れた目には、それが電気泳動に使うものだとは信じられないような機械です。1950年に発売されたHT-B型チセリウス電気泳動装置の2号機です。 この2号機は、1950年に東京大学医学部生化学教室に日立製作所から寄贈されました。1966年、平井が教授を務める北海道大学医学部生化学第1講座に移設されました。1983年、平井が北海道大学を定年退官し、東京都国分寺市の財団法人基礎腫瘍学研究会腫瘤研究所長に就任すると、主とともに東京に戻り研究所内で展示されました。平井の没後、基礎腫瘍学研究会が北海道に移った際に、再び北海道大学に移され医学部内で保管されていました。その後、建物の改修の際に、北海道大学総合博物館に移され、今日に至っています。 北海道と東京を往復した2号機は、第二次世界大戦後の混乱の中から復活した日本の生化学研究の歴史とともに、博物館で静かに余生を過ごしています。
※HT-B型チセリウス電気泳動装置2号機は、学内に限らず市民、観光客にも公開されているそうです。 (本文中:敬称略) 謝辞HT-B型チセリウス電気泳動装置2号機の所在確認に際して、財団法人基礎腫瘍学研究会 西 信三 理事長、北海道大学大学院医学研究科 渡辺 雅彦 教授、北海道大学総合博物館、株式会社バイオテスト研究所のご助力をいただきました。また、渡辺 雅彦 教授にはHT-B型チセリウス電気泳動装置2号機についての資料もいただきました。ご協力くださいました皆さまに、この場を借りてお礼申し上げます。 参考文献
※余談:平井秀松先生が書かれた文章は大変面白い読み物です。上記文献の中でも、1966年の「Tiselius教授を訪ねて」と1982年の「Tiselius装置組立ての懐旧」は、特にオススメです。 お問合せフォーム※日本ポールの他事業部取扱い製品(例: 食品・飲料、半導体、化学/石油/ガス )はこちらより各事業部へお問い合わせください。 お問い合わせありがとうございます。 |
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