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生化夜話 第29回:大きな飛躍ではないつもりが - 二次元電気泳動の開発二次元電気泳動の開発について実験書やレビュー記事などを読んでみると、同じ1975年にそれぞれ別個に出されたパトリック・オファレルとヨアヒム・クローゼの2報を、最初の例として挙げていることが多いようです。 一次元目に等電点電気泳動を行い、二次元目にポリアクリルアミドゲル電気泳動を行うという二次元電気泳動の基本形を世に広めたのは彼らですし、1986年にはその功績で2人はSarstedt-Research Prizeを受賞していますので、今日の二次元電気泳動の元祖にふさわしい、とはいえます。ただ、二次元電気泳動のアイディアそのものは、もっと早い時期から試みられていました。 二次元電気泳動の長い伝統 - 長いだけですが今日のような担体を用いた電気泳動がある程度実用的になったのは1950年代でした。1951年にティセリウスがろ紙を用いた電気泳動法を改良して報告し、1955年にはスミシーズがデンプンゲルの簡便な製法を報告しました。 デンプンゲルの製法を改良したスミシーズが、その翌1956年に、おそらく世界ではじめての二次元電気泳動を論文にしました。アクリルアミドの開発以前の話ですので一次元目としてろ紙で電気泳動を行い、二時限目はデンプンゲルで電気泳動を行いました。その結果、ヒト血清タンパク質が20ほどのスポットに分離できました。これを皮切りに、チラホラと二次元電気泳動が試みられましたが、ヒト血清タンパク質で分離できるスポットの数は20くらいのままでした。 3年後、1959年にレイモンドがポリアクリルアミドゲル電気泳動(PAGE)を発表しました。今度は、そのレイモンドがポリアクリルアミドゲルを用いた二次元電気泳動に挑戦しました。一次元目、二次元目ともにPAGEで、それぞれpH、バッファー組成、ゲル濃度を変えてみました。しかし、1964年に報告された結果は、スミシーズの最初の二次元電気泳動と大して変わりませんでした。 ろ紙、デンプン、ポリアクリルアミドと材料は異なりますが、分子量の違いにもとづいて分子を分離するという基本原理は変わりません。となれば、結果が劇的に異なることはなさそうです。 それでは一次元目と二次元目に異なる原理を使ってみよう、と考えた研究者も少なくなかったようで、1960年代の終わりごろには、分子量の他に電荷に注目した手法が報告されるようになりました。 中にはごく低濃度のポリアクリルアミドゲルをつくることで、ゲルの分子ふるいとしての機能を低下させ、電荷の影響を受けやすくしようと試みたアイディアマンもいましたが、等電点電気泳動とPAGEを組合せた実験例がいくつも報告されました。この新しい組合せによって、ヒト血清タンパク質は90ほどのスポットに分離できるようになりました。 等電点電気泳動は1960年代前半に装置と理論の基本形が確立されている技術ですが、等電点電気泳動とPAGEの組合せが出てきたのは1960年代の終わりになってからのようです。1967年に世界で最初の等電点電気泳動用両性担体AmpholineがLKBから発売されゲルの調製が比較的簡単になったことが影響しているのかもしれません。 そして、1974年、イギリスにあるビートソン研究所の研究者、アレクサンダー・マクギリヴレイとデヴィッド・リックウッドが、等電点電気泳動とSDS-ポリアクリルアミドゲル電気泳動(SDS-PAGE)を組合せた二次元電気泳動の論文を発表しました。彼らの手法は、翌年発表されることになるオファレルやクローゼの方法とよく似ており、結果も悪くなかったのですが、タンパク質研究者の間に広まることはなく、埋もれてしまいました。彼らの等電点電気泳動のやり方が煩雑だったのと、検出法の感度が低かったためにスポットの数が少なめで印象がよくなかった、というのが原因のようです。 オファレルの二次元電気泳動手段を目的にコロラド大学の大学院生パトリック・オファレルは、ボルボックスを材料とした発生生物学の研究をはじめました。 ラボの他のメンバーはバクテリオファージを材料に研究を行っていました。バクテリオファージのグループでは、ライフサイクル中での遺伝子発現の変化を調べるために、時期をずらして放射性同位体で標識し、それぞれをSDS-PAGEにかけて、得られたバンドを比較していました。オファレルはその結果に大いに感動し、この手法をボルボックスに応用することを当面の目標にしました。 ただ、ボルボックスはバクテリオファージよりもずっと複雑な生物であり、多数のタンパク質を含んでいます。そのため、バクテリオファージの手法そのままでは使えそうにありません。そこで、オファレルは2つの方法を組合せれば解像度が上がるのではないかと考えました。 後年オファレルが記したところによると、このとき思いついた二次元電気泳動は、概念上は大きな飛躍ではなかったそうです。薄層クロマトグラフィー(TLC)の二次元展開は以前から頻繁に行われていて、電気泳動の例も1970年に行われていることを知っていたそうです(1960年代から行われていたことについては、当時のオファレルは知らなかったそうですが)。 前述のように既存の二次元電気泳動の結果はあまり芳しくなかったので、オファレルは、分解能と汎用性を重視して二次元電気泳動法の研究に取組むことにしました。 といっても、キットも何もない時代です。近所のラボでSDS-PAGEをはじめると聞き、彼らと一緒に泳動槽からガラス板、ゲルドライヤーまで手作りし、SDS-PAGEのやり方も手探りで構築することになりました。学部生時代にオファレルは、減数分裂で生じるヒストンの変化を電気泳動で検出しようとしましたが、所属研究室に設備がなく、オファレルは論文を読んで装置を自作しました。この経験から「必要なものがなければ自作する」ことには特に抵抗感はなかったそうです。 タンパク質をうまく分散させるためにリニアなpHグラジエントを調製する方法や、変性剤入りのサンプルでもできる等電点電気泳動のやり方(当時の等電点電気泳動はSDSと相性が悪かったそうです)などを工夫しました。1972年の前半には大腸菌タンパク質の二次元電気泳動に成功し、さらにその後も1年ほど手法の改良や分析法の開発に費やしました。 こうした一連の開発は、とても地道で根気のいる作業だったようで、その当時の回想を執筆したオファレルは、開発の詳細は長くて退屈だろう、として多くを語っていません。ただ、そういった長く苦労の多い開発をのり切って成功したポイントとして、楽天的であることと負けん気の強さを挙げています。長い時間のかかる実験に失敗するとさすがにがっかりしたそうですが、それでも翌日には気分を切り替えて改善に取組んだそうです。 新しい分野をつくろうというヴィジョンはありませんでしたオファレルの当初の目的はボルボックスのタンパク質の分離でしたが、新しい手法を試し、そのよさを伝えるには、すでに詳しく研究されているモデル生物のほうが適していると考え、二次元電気泳動の実験には大腸菌を使用していました。 そこで最初に、グルコースの欠乏で起こる代謝の変化や、制御ネットワークについての分析など、大腸菌で行われた過去の研究について、二次元電気泳動でも可能なことを示したのですが、あまり好意的な反応は得られなかったそうです。その当時の研究者の多くは、1つまたは少数のタンパク質をあつかう実験をやっていたので、わざわざ複雑なことをやらなくても簡単に解析できる、そんなにたくさんのスポットを出してどうするの、といった声が上がりました。 さて、研究目的達成のために適した研究手法を探すという話はよく聞きますが、オファレルの場合は主客転倒して、研究手法のために研究目的を探すことにしました。前述の反応を受けたオファレルは、従来法では研究できない問題をあつかう方が得策と考え、二次元電気泳動でなければ研究できなさそうなテーマを探すことに労力を注いだのです。その中でプロテオミクスにつながるアイディアが出てくるわけですが動機が動機ですので、当時を振り返ったオファレルは、新しい分野をつくろうというヴィジョンはなかった、学位論文の一環として方法を開発しただけ、と正直に書き残しています。 奇妙な講義が残した縁二次元電気泳動の手法も確立し、安定した結果が出るようになってきた頃、オファレルの上司であるラリー・ゴールドがある提案をしました。二次元電気泳動の手法を広めるためにトレーニングコースを開催してはどうかというのです。やるなら合衆国の各地から受講者を集めようと盛り上がり、ラリー・ゴールドの人脈を駆使して受講者を集めました。その結果、講師は25歳の大学院生、生徒はハーバードやバークレーの教授をはじめとする一流の研究者多数、そんな何とも奇妙な講義風景が展開されました。オファレルは無事に4日間のトレーニングコースをやり通し、彼の二次元電気泳動法を研究者コミュニティに伝えるとともに、多くの研究者と知り合うことができました。この交友関係に意外なところで助けられることになりました。 トレーニングコースの準備の傍ら、オファレルはそれまでの二次元電気泳動法のデータをまとめて、卒業間際にJournal of Biological Chemistryに投稿しました。卒業後コロラド大学からカリフォルニア大学に移って、新しい実験の準備に取組んでいましたが、オファレルのもとに編集部からリジェクトの通知が届きました。その理由は、二次元電気泳動の用途や可能性について大げさに言い過ぎ、というものでした。 幸いにも、編集委員にコロラド大学時代に開催したトレーニングコースの「生徒」が2人もいたので、オファレルは彼らの助けを借りてレビューをやり直してもらうことができました。それでもいろいろと注文がつき、用途や将来性の部分はかなり削ることになりましたが、1975年に二次元電気泳動法の論文がJournal of Biological Chemistryに掲載されました。 ちなみに、当初オファレルが目的としていたボルボックスですが、結局オファレル自身はボルボックスのタンパク質を二次元電気泳動で解析することはなく、二次元電気泳動の研究と並行してつくっていた多数の変異株はコロラド大学を卒業する際に同じテーマをやっている研究者にあげてしまったそうです。 クローゼの二次元電気泳動1つだけ見てもしかたがないオファレルの二次元電気泳動は多数のタンパク質を効率よく分離するという目的からスタートし、全体を網羅的に解析するという考え方は二次元電気泳動の用途を考える中で出てきたようにも感じられます。一方、同じく1975年に二次元電気泳動の論文を発表したベルリン自由大学のクローゼは、全体をみる、ということを重視して開発したようです。 クローゼは化合物で誘発した突然変異によるタンパク質の変化を全てとらえようとしていました。この目的から、多数のタンパク質を一度に分析できるよう、二次元電気泳動の改良に取り組みました。ただ、クローゼはアミノ酸の変化にともなう電荷の違いも重視していたので、SDSを使用しておらず、1975年の論文ではオファレルの方法に比べてスポットの数は下回っていました。もちろん、オファレルの結果よりは少なくても、既存の二次元電気泳動の結果よりは大幅に改善していましたし、その後、すぐにSDSを使用してスポットを増やす方法も発表したそうです。 一方、それまでのタンパク質研究は特定のタンパク質の性質、機能、構造を徹底的に調べ上げるというものでした。もちろん、今日でも重要な研究なのですが、当時はそれだけしかしていなかったのです。そうした研究をしてきた周囲の反応はというと、全タンパク質を対象に、といっても全部同定して調査なんてできないのだから、そうした研究に意味があるのか、といった否定的なものでした。 ゲノムに生じた点突然変異の影響を調べる研究にしても、それまでの研究は基本的に従来のタンパク質研究スタイルと同様に、調べたい特定のタンパク質だけを取り出して、変異によってどのような変化が生じるのかを調べるのが主流でした。 そこで、当時のタンパク質研究のスタイルに反する「全体をみる」研究を行ったのはなぜか、聞いてみました。 1970年代にも、ヒトの全遺伝子を同定してしまおう、という発想はありました。しかし、それを考えていたDNA研究者たちは、遺伝子の塩基配列がわかればタンパク質の機能もすぐにわかる、と考えていたのです。実際には、翻訳後修飾、細胞内での濃度、タンパク質の分解、変異の影響など、機能を理解する上で必要な情報はたくさんあるのですが。 その後、DNAだけでは機能はわからないという理解が進み、ポストゲノム時代に入りますが、その時期にも研究はRNAレベルのものが多く、機能については一部しかわかりませんでした。 今日では細胞の機能を知るためにはタンパク質を調べないとならないことが理解され、診断や治療のための研究の基礎となっています。 人がそれぞれ違うのはなぜか、同じ病気にかかっても症状に個人差があるのはなぜか、そんな疑問の答えを見つけたくて、私は特に変異や多型に関心をもっていました。そのため、できるだけ多くの変異を検出することが重要でした。この点で、二次元電気泳動が最適な方法だったのです。二次元電気泳動なら、パターンの変化で同時に多数の変化をとらえられますし、変異を検出するだけでなくタンパク質の量についての情報も得られます。そうして得られたタンパク質の変化と、表現型の違いを相関させて調べれば、個人差の原因になっているタンパク質を見つけられるでしょう。そんなことを考えていました。 二次元電気泳動は何をみているのか?1986年、二次元電気泳動を実用化した功績から、オファレルとクローゼはSarstedt-Research Prizeを受賞しました。電気泳動の実用化でティセリウスがノーベル賞を受賞したのも同様かと思いますが、このような手法の開発は、単に最初にやってみたことよりも、多くの研究者が使えるようにしたことが重視されるようです。 クローゼは、二次元電気泳動の実用化以降もこの分野で研究を続けていましたが、オファレルは違う分野に移ってしまったのでめったに会うことはなかったようです。しかし、この授賞式の際に、2人は顔を合わせています。 クローゼによると、オファレルは全タンパク質を対象に研究を行うということにやや懐疑的だったそうです(ちなみに、プロテオミクス研究が盛んになる前の話です)。オファレルは、不溶性のタンパク質など二次元電気泳動に適さないタンパク質があり、実際には全タンパク質を対象にはできないことを懸念していたそうです。 なお、二次元電気泳動は何をみているのか?という点については、DIGE道場コーナーの国立がんセンター 近藤先生による記事が詳しいので、こちらをご参照ください。 名人芸無用さて、1975年のオファレルとクローゼの論文を契機に二次元電気泳動が一般的な手法になったとはいっても、二次元電気泳動は決して簡単な実験ではありませんでした。 特に難しいのが、一次元目の等電点電気泳動から二次元目のSDS-PAGEに移るところでした。支持材なしの柔らかいチューブゲルをSDS-PAGE用のゲルにロードするのは難しい作業で、変形して像に歪みが生じるのは日常茶飯事、同じ等電点電気泳動装置を使っていても二次元目へのロード作業の際に長さが10~20%違っていることが少なくありませんでした。 また、一次元目に使うpHグラジエントを毎回同じように調製するのも簡単ではありませんでした。 こういった非常にやっかいな手技上の問題を抱えていたため、再現性よく、ゲル間での比較がしやすいデータを出せるかどうかは、ある種の名人芸の世界になってしまいました。 これではよろしくないということで、ミラノ大学、ミュンヘン大学、そして前述のAmpholineのメーカーであるLKBが共同研究を行い、1980年代に固定化pH勾配(Immobilized pH Gradient、lPG)を実用化しました。これにより、名人芸の必要性は大幅に緩和され、さらに1991年からは今日使われているのと同じDryStrip型の固定化pH勾配が市販されるようになり、一次元目から二次元目への移行についての大きな問題は解決されたのでした。 もっとも、それでも相変わらず「二次元電気泳動は名人芸」という話はあるそうですが、この点についても、DIGE道場コーナーの国立がんセンター 近藤先生による記事をご参照ください。 謝辞突然の質問にもかかわらず快くお答えくださったヨアヒム・クローゼ教授(Charité - Universitätsmedizin Berlin)に深く感謝申し上げます。 参考文献
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